ネーミングによって存在を認められる気がする?

物や事象、概念に名前を付けると、「そのモノ」と「それ以外」を区別できるようになる。

例えば、何かに造詣が深い人たちに「オタク」という名前を付けると、「オタクな人」「オタクじゃない人」と分けられるようになる。しかし、「オタク」な人たちの中には、アニメが好きな人もいれば鉄道が好きな人もいるワケで、それらを区別するために「アニメオタク」「鉄道オタク」といった呼び名が生まれる。

一度このような名前が生まれて、その名前によってクラスタリング (一括りに) されるようになると、当人たちの中には独特の自尊心・プライドが生まれがちに思える。特に、趣味嗜好を表すクラスタではそれが顕著だと思う。

僕が見る限り、「何かが好き」というだけのことで強い自尊心・プライドを持っている人は、それによって主観が大きく歪んでいき、段々と支離滅裂なことを言い始める人が出てくる傾向が強いと思う。所詮はただの閲覧者・傍観者・受け手の一人でしかないのに、妙な選民思想を持ちがちというか。


カメラオタク。ガチ恋勢。パチプロ。暴走族。

節度があれば、「カメラ好き」「(アーティストなどの) ファン」「ゲームスロット好き」「バイク・クルマ好き」なのだが、それを逸脱していくと、極端な消費、ストーカーまがい、破産、犯罪行為に繋がっていくことが多いように思える。

で、この「節度を逸脱する」原因に、「逸脱した後の状態に名前が付いていること」があるのではないか、と思ったりした。「カメラが好き過ぎてカメラオタクになる」のではなく、「『カメラオタク』という言葉を知り、『自分もそうなっていいのかも』と思うことでカメラオタクになっていく」みたいなことがあるのではないか、と思った。

もしこうした趣味嗜好の人たちに対する呼び名がなかったらどうなるだろう。

…コレなら、ちっとも「カッコイイ」「憧れる」「自分もそうなりたい」とは思えなくなるだろう。

「いじめ」という言葉で事実をボカすのではなく、「暴力」「強盗」「傷害事件」と呼ぶべき、というのと同じで、こうしたあまり褒められない度が過ぎた行為も、それっぽくクラスタリングした言葉で誤魔化さずに、正確に表現した方が良いと思う。そうしないと、彼らはそのクラスタに属する自分を正当化し、どんどん悪質な方向にエスカレートするだろうから。