何かが言語化された時はその逆の意味を指すことが多い
例えば「アットホームな社風です!」と言われた時は、実際は全然アットホームなんかじゃないものをアットホームであるかのように表面上取り繕っているだけのことが多い、というような話。
わざわざそのような言葉を使って言語化しなくてはならなくなった時点で、大抵何かしらの問題があって、半分理想論みたいなものでその言葉を使っていることが多いと思う。
「技術力を上げよう」とわざわざ言わなきゃいけないときは「今は技術力がない」だし、「技術力を上げる具体的な施策はない」からこうなっているワケだし、それはつまり「本気で技術力を上げるつもりはない」といってもいいことがほとんとだ。漠然と何か目標設定をした気になっていて、その目標を掲げた理由 (目的) がない時にこういう言葉になる。
具体的に言えていない文章は嘘をついている
こういうおかしな文章と、本当っぽそうな文章の違いを、書きながら考えていたのだが、「もっと具体的な言葉が使えるのに使っていないとき」は、何か嘘をついている文章だといえそう。
本当に「技術力を上げよう」と思っている時は、「技術力を上げる」なんて言葉ではなく、「今○○に困っているから、○○を解決するために××言語で~~する方法を学習する」だとか、「将来○○するために、××の技術について~~する」というように、より具体的な言葉が出てくるはずだ。
「アットホームな社風」と言っている時は、「アットホームだから残業代なんて金銭のやり取りもなく協力しあう会社なんだ」「アットホームだから毎週上司から強制で飲み会をやるんだ」といったような、具体的な行動・事例を隠蔽している。ここが表立ってはいえないから、聞こえの良い言葉である (と思って使っている) 「アットホームな…」といった表現でごまかしてる。
自分が文章を書くときは
ちょっとぼんやりした例になっちゃってるけど、これって自分が何か建前で文章を書かされている時も使えると思う。
「読み手がどう思うか考えよう」といった具体例のない指示だとその人の文章力は伸びないだろうが、「キミのこの文章、何か隠し事してるよね?こういうところから読み取れるよ?」って目線なら、取り繕い方を工夫できるようになるだろう。本音を建前で塗り替えることはできないから、あくまで「うまい取り繕い方」であるが。
会社でやらされる個人目標の設定などもそうだろう。組織のために繋がる個人目標を立てろ、と言われても、やらされている仕事が組織の発展に繋がるとは思えない仕事の時だったり、単純に自分が何をやらされているのか自分で把握できていない時、どうしても曖昧な表現で逃げることが多いが、そんなものは見抜かれている。
だから、「自分は分かっていますよ、ただスペースの都合上全てを書ききれていないだけですよ」と見せかけるような、ちょっと具体的なことに触れておくような文章が挟めていれば、もう少し取り繕った文章が書けるのではないだろうか。「対象のテーマについてよく考える」みたいな指導って要はこういうことで、「本気でそう思いなさい」という思想の捻じ曲げではなく、「もっともらしく聞こえるように山張ってテクニックで隠蔽しろ」って意味だと捉えるとやりやすいと思う。