合理的無知

どこかで「合理的無知」という言葉を聞いた。

「合理的無知」とは経済理論のひとつで、あるひとつのことを知ることによって得られるメリットと、それを知るためにかかるコスト(デメリット)を合理的に考えて、コスト(経済的、時間的コスト)がメリットを大きく上回るような場合には、それについて勉強する価値はないと判断して勉強を合理的に放棄するという考え方。

つまり、知るのが大変な割りに、知ってあまり意味がないときは、知らないで済ませてしまう。

「合理的に考えて、知ることを放棄する」

ということ

ダウンズが考案し、<政治の経済学>の世界では普通に用いられる用語である<〔有権者の〕合理的無知>という概念は、(中略)野菜や果物の値段や、パソコンの価格を調べたり、すてきなデート・スポットを探したりというような日々の生活に有益な情報を得るために費やす時間やお金(コスト)を、公共政策をしっかりと評価するために要する時間やお金にはとてもなれないという<合理的な選択の結果としての無知>である。

もし、経済学が仮定するように、人びとは合理的経済人として行動するのであれば、多くの人が、合理的無知を選択することは、かなり当然のこととなる。

仮に、日々の生活に有益な情報を得るのに費やしている時間やお金を犠牲にして、政策を評価するために、新聞の政治経済面や専門雑誌を毎日数時間読んだり、休日は図書館にこもったりするような生活をしたとしよう。ところが、選挙の際の彼の1票の重みは、投票した人たちのなかの1票分にすぎないのであるから、政策評価から得られる期待便益は、かぎりなく小さなものになる。

そうであるのに、必ず見返りが見込める日々の生活情報を得るための時間やお金を、公共政策を理解するために費やす人というのは、政治がとても好きというような趣味をもっているような人にかぎられることは、十分に予測できるのである。

したがって、国民のほとんどが、実は何も知らない状況の下で、何事も選挙で決める民主主義が運営されていることになる。


不勉強なままのうのうと生きていられる人間は、この「合理的無知」という選択を取っている領域が多い、ということなのだろう。

知って勉強したら得られる効果」をきちんと得られないと、「効果が薄い」と感じてしまう。

よくよく考えて「コレを知ってこのスキルを得れば、年間コレだけの時間が削減できる」とか、「これだけの品質向上が見込めるし、別の視点で考えると、これによる人事評価アップと昇給も期待できる」といったところに結び付けて適切に考えておきたい。

一方、「勉強するのにかかる時間」も、感情に左右されて「コストがかかるんだ」と決め付けていると、相対的に得られる効果が薄く感じられてしまう。

目の前しか見ずに短絡的な「楽」を得ようとしているタイプは、中長期的な先を見据えた「投資」的な発想はできないのだろう。いざ調べてみれば容易いことかもしれないのに、「そもそもやりたくない」「新しいことを知るのは苦手」「元々の作業が遅れてしまうし…」など、今の不快感を肯定して逃がすために、「だから知る必要はない」と判断するのだろう。

こうして、中途半端なところで「合理的無知」を選択した人間は、「30分勉強しておけば、毎日の作業時間が半分に削れる」ような作業に、毎日これまでどおり同じだけの時間をかけて、結果大きく損して周りに置いていかれていくのだ。

その「合理的無知」は正しい選択か?本当にその学習コストは投資する価値がないコストか?

大概は本人の視野の狭さ、「合理的無知を選択する以前の無知さ」が原因だ。そんな賢くないんだから学んどけ。