映画「American History X アメリカン・ヒストリー X」を観た

2021-01-01 視聴。1998年。エドワード・ノートンとエドワード・ファーロングが主演。

あらすじ

舞台はアメリカ・ロス。いわゆるネオナチに傾倒している、スキンヘッドのエドワード・ノートンは、自宅のクルマを盗もうとした黒人を殺し、逮捕される。

白人至上主義の兄ノートンを見て育った、弟のエドワード・ファーロングは、兄の逮捕後、兄と同じネオナチのグループに参加し、スキンヘッドになり、その思想に傾倒していく。黒人を倒して逮捕された英雄として、兄はグループで神格化されていた。

3年後、兄が出所。帰宅した兄は、髪を伸ばし、真っ当な人間に戻っていた。過激な思想により対立していた家族にも謝罪し、優しく接するようになっていた。

一方の弟ファーロングは、学校の授業でヒトラーを称賛するようなレポートを書き、黒人の生徒と小競り合いを起こすなど、問題行動が目に余るようになっていた。兄ノートンの先生でもあった黒人のエイブリー・ブルックス先生は、ファーロングに「兄のことについてのレポートを書いてこい」と宿題を出す。

兄が刑務所から帰宅し、弟が宿題を命じられた日の夜。ノートンはグループの集会に押しかけると、グループを取り仕切る白人男性のキャメロンに「自分と弟はグループを抜ける」と宣言、反論するキャメロンを殴り、弟を連れて逃走する。

兄の変わりように驚いた弟は、経緯を尋ねる。兄は刑務所での経験を語った。


兄ノートンは、刑務所に入るとすぐに孤立し、身の危険を感じるようになった。運良く白人のグループに混ぜてもらい、黒人の囚人たちと対立せずに済んでいた。ノートンは清掃係に任命されると、そこには既に長年清掃係を務める黒人の青年がいた。人種に関係なく、別け隔てなく会話してくれる黒人青年と、ノートンは次第に仲良くなった。

一方、白人グループ内の一人が、メキシコ系の別の囚人と物品の売買を行っているのをノートンは見かける。単なる商売だと説明する白人囚人に対し、まだネオナチの思想が残っていたノートンは「あいつは裏切り者だ」と断じ、白人グループとつるむのを止めることにする。するとそれに逆上した白人グループが、シャワールームでノートンをリンチ・レイプする。

最悪な思いをさせられたノートンの元に、黒人教師のエイブリー・ブルックスが面会に現れる。ノートンはエイブリーとも議論が対立したことがあったが、エイブリーはそんな彼や、弟ファーロングのことを注意深く観察していた。巷ではノートンが神格化されており、弟ファーロングも随分影響を受けていることを聞かされる。ノートンは「弟には、自分のようになってほしくない」と打ち明ける。

エイブリーもまた、黒人として差別を受けてきたが、白人や社会をいくら憎んでも答えは出なかったという。「怒りは君を幸せにしたか?」そう尋ねられたノートンは否定し、刑務所を出たいと語る。

リンチ以降、白人グループからも黒人グループからも睨みをきかされ、生きた心地がしなかったという。しかし不思議なことに、それ以降ノートンは目立ったリンチを受けることもなく、1年後、無事に出所できた。どうやら、清掃係の黒人青年が各所に根回しをしてくれていたようだった。出所時、黒人青年に「ありがとう」と伝えるも、「なんのことだ?お前のために命張ったりするかよw」と茶化される。別れ際、青年から「もうブラザー (黒人) をいじめるなよ」と声をかけられるのだった。


元々、ファーロングとノートンの父が白人至上主義的な思想の持ち主であり、ノートンはその父が殺されたことをきっかけに、ネオナチに傾倒していった。しかし、黒人や移民を憎み、暴動や殺人を犯した結果、何も変化はなかった、とノートンは語る。ファーロングには生き方を強制はしないが、自分の経験は理解してほしい、と語るのだった。

二人は帰宅すると、自宅のネオナチ関連グッズを全て捨て、母や妹たちと眠るのだった。

翌日、ノートンは弟ファーロングを学校まで送る。ファーロングは、「アメリカン・ヒストリー X」と題された兄に関するレポートを持って、エイブリー先生のデスクに向かおうとしていた。途中トイレに立ち寄ると、自分の真後ろには昨日小競り合いを起こした黒人の生徒がいた。そしてその黒人生徒は銃の引き金を引き、ファーロングを射殺した。知らせを聞き駆け付けたノートンは、ファーロングの遺体を抱き寄せ、泣き叫ぶのだった。

ファーロングのレポートには、「怒りに任せるには人生は短すぎる」「我々は敵ではなく友人である (リンカーン大統領の引用)」と記されていた。

感想

「ファイトクラブ」のナヨナヨしたイメージのあるエドワード・ノートンだが、本作のためにかなり筋力アップしたようである。ネオナチ時代の怒りもウソではなかっただろうが、結果的にとても後悔している、そんな繊細な演技も素晴らしかった。

ターミネーター2の頃からもう少し成長したエドワード・ファーロングも、周りに感化されやすい高校生を演じていて良かった。

世間には「変わって欲しいこと」「変えたいこと」は沢山ある。しかし、怒りを原動力に行動してたところで、世間も変わらないし、自分も変わらないのだ。そもそも「怒り」とは、「自分が正しい (= 自分が変わる必要はない)」「周りが間違っている (= 周りが変われ)」という思いの表れだが、「社会」のような抽象的で広大な対象物に怒っても、なかなか変わることはないだろう。

結局のところ、自分を変えることなく社会だけを変えるなんてことは出来ず、まずは自分の受け取り方、解釈を変え、自分から変わっていくことで、結果的に社会全体が変化していくことだろう。怒りという個人的な感情を剥き出しにしてデモを行ってもなかなか変わらないだろうが、この映画を観た人は、きっとその後の行動が変わるはずだ。良い変化とは、こういう風にあまり目立たず、静かに変わっていくものなんだと思う。