雑記

一つの記事にならなさそうな小ネタの寄せ集めブルース。

目次

正常性バイアス

変な環境だな、変な人だな、と思いながら過ごしていても、近くで見続けていると段々慣れてしまう部分はどうしてもあるみたいで、一度その環境から抜けてみたり、違う人の意見を聞いてみたりすると、自分が感じているよりも数段上の「異常さ」がそこにあって、「あ、自分メチャクチャ変なところにいるんだ」「この人ってそこまで言われるほどヤバい人だったんだ」って深刻さに気付く。

自分が今いる場所に心地良さがあって、良い方向に変われている気がしているならそれでいいんだけど、「何か変だよな」と思った時は、全く関係ない場所・人との関わりを頑張って持ってみることで、その異常さを正確に認識できると思う。そしたらあとは逃げる準備だ。

「皆で決めたこと」より「トップダウンの命令」の方が上手く回しやすい

仕事って「やらなくて済むならやりたくないこと」である人が殆どで、仕事において責任なんて負いたくないし、自分から積極的に仕事を広げたいと心の底から思っている人はあまりいないと思う。自分が詳しくない領域や苦手な分野が絡むと余計に、責任を負うリスクも考えるし、仕事量も読めなくて抵抗感が生まれることだろう。

少数のチームで、自分達でやるべきタスクを決めていこう、どう進めるかはチーム内で合意して進めよう、といった考え方は最近よく目にするけど、コレがまー上手く回らないモンだなと感じている。

どういうワケか、「皆で相談して決めたこと」って根拠や理由が希薄になりがちで、誰も責任を持たなくなることが多かった。一見すると集合知の恩恵がもたらされる―つまり「皆で相談したんだからロジックがしっかり構築できているはずだろう」とか「自分達で決めた目標なんだからそこにコミット出来るように適切に働きかけられるはずだろう」とかって思うんだけど、結局そうはならなかった。今回の場合ファシリテータにも大いに問題はあったんだけど、「皆で決める」って、仕事を回す方法としてはあんまり有効じゃないのかもな?と考えるようになった。

どうして「皆で決める」は良い方向に向かわないのだろう?もっと細かく、正確に原因を特定していきたいなとは思っているんだけど、今のところハッキリとは分からない。ただ、何となく、個人の能力が既に十分高くて、かつ意識が高くないと無理なのかな、って感じはしている。

知識がない人が何人集まっても「文殊の知恵」とはならず、先を見ない短絡的な方針が多数決で採択されてしまう。チームの中で一人が正しいことを言っていても、皆が賛同しないから選ばれない、というワケだ。

なぜ正しいのに、そうした方がより良いのに、賛同が得られないのか。多数派が間違った意見に固執しているか、何となくその少数派の人間に従いたくないか、少数派が頑張って説得しようとしないで折れてしまうからなのか、色々あると思うが、大抵の人は目の前のこともロクに見えておらず、それなのに自分が見える世界が全てだと思って生きているから、それよりも先の話や、高次元な話をされても分からないのだろう。

結局、「自分達で一生懸命考えたんですけどダメでした」っていう状態になってた。そもそも、「自分で考える」なんてちっとも良いことじゃなくて愚者のやることだから、それが集合体になっただけだと思うと、コレが愚策なのは確かなんだよな。

そこでお偉いさんが出てきて「お前はコレやれ、お前はアレしろ」とトップダウンで命令したら、みるみるうちに仕事が回るようになった。お偉いさんが上から言うことは、その根拠や理屈が理解できようができまいが関係なく、機械的に動けるらしい。この素直さ、従順さも変な感じがするけど、多分「責任は自分じゃなくて命令してきた上長が取るんだから、俺がよく分かってなくてもいいや」と吹っ切れるのかもしれない。

なんだか、大人ってこんなにポンコツなのか、こんなに何も出来ねぇヤツらばっかりなのかとガッカリもするけど、本当に自律してたら全員自営業で仕事してるよな。サラリーマンっていうのはそういうモンなんだな、と思うことにした。「どうして我が社は Google や Microsoft のようになれないのか!」って、未経験の新人採用してマネージャ層の給料ですら4桁万円いかない規模じゃ太刀打ちできんよなと思う。社員に還元しない会社が悪いんだとかいくら言っても、そこにずっといる奴は結局、その金額程度の能力しかないんだ。現実が正解で、感覚の方が間違ってる。

自分達の意識を高く持ち、先々まで見越して最適な判断を下し、目標にコミットしよう、なんて考える人材はこの年収レンジではそうそういない。もしくは、意識だけはいっちょ前に持っていても、実力が伴わずチンプンカンプンなことをやっていて炎上赤字案件に陥れるかのどっちかだ。

自分が絶賛巻き込まれ中の案件のことを傍から目線で振り返ってみたが、やっぱり自分がいるレベルなんてこんなモンなんだ。意識低いバカと意識高いだけのバカしかいない。そういう俺も、「自分は違う」と言いながら、今すぐ居場所を変えられる程のモノは持ってないんだ。

そしてそこに実は気をつけるべき点がある。集合知とか「みんなの意見」というと、何かそういう意見や知識が自然に実体的に存在するような印象を持ちやすい。でも実は「みんなの意見」は、かなり高度な手法でだれかが作り上げるものだ。自然に生まれる合意のようなものではない。その意味で、個人的にはこの種の集合知を民主主義とつなげて論じるありがちな議論に、少し疑問を抱いている。

たとえば「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意や妥協から生まれるのではない」(p.18)と本書は言う。意見集約には投票すべきなのだそうだ。でも、何でも投票で片付けて少数意見を切り捨てるのが民主主義ではないのも当然だろう。妥協と合意のない政治などあり得ない。その意味で著者の言う集合知や「みんなの意見」は、実は究極のところで民主主義とは似て非なるものなのかもしれない。その「意見」が集約され、作り上げられるプロセスには、ものすごく警戒が必要なはずなのだ。

そしてそれに伴い、本書でボケ役の専門家の役割についても、必要以上に軽視すべきではないことも指摘しておこう。というのも本書には出てこないが、「みんなの意見」には大きな欠点がある。なぜそういう結論になったのか、さっぱりわからないのだ。本書冒頭の例だと、なぜウシの重さが一一九七ポンドだと思うんですか?専門家なら、その根拠を(こじつけでも)説明できるし、その説明に対して(形式的にせよ)責任を持つ。でも「みんなの意見」の根拠なんかだれも説明できないし、だれも責任を持たない。あなたが五里霧中の状況にいたとき、根拠レスな「みんなの意見」に本当に命を賭けられる?ジャングルで迷ったとき、専門家はたとえば植生を根拠に西に向かおうといい、その判断に自分の名誉と命を託すという。ところが「みんなの意見」は、特に根拠はないけどなんとなく東だという。さて、あなたは「みんなの意見」に従う気になる?従わない人は本当に不合理と言えるだろうか?

ハンロンの剃刀だと思っても許せはしない

「『無能』で十分説明されることに悪意を見出すな」というのがハンロンの剃刀という考え方であるが、「悪意なくナチュラルに無能ムーブかましてんのか、どっちにしろシネや」としか思えず、イライラが収まらない。

嫌いなモノを表明する自由はないのか

話の例えとして、自分の思想ではないことを書くが、例えば「私は黒人が嫌いだ」とか、「同性愛に嫌悪感を抱いている」とか、そういう個人の考えがあったとして。

最近の世間の風潮では、あらゆる差別をなくそうという動きが高まっている。映画には多人種が出ていれば良しとされ、SNS に前述のようなことを書けば猛批判される。まるで「そんなことを考えてはならない」「そういうことを考える人間は存在してはならない」と言わんばかりに、少しでも差別的なこと、反社会的なことを言った人を自殺に追い込むレベルで叩きまくる感じがする。

いや、勿論、差別的な発言を「するべき」とも思っていないし、反社会的なことを推奨する気もない。いずれも、嫌な気持ちになる人がいるなら望まれる行為じゃないよね、っていうことは分かる。

でも俺は、差別的な発言よりも、「差別的な発言をした人を袋叩きにする連中」の方が何万倍も嫌いで、見ていて不愉快で仕方ない。「お前はレイシストだ」「人間としてどうかと思う」なんてコメント返してるような連中の差別心の方がよっぽど醜いし、不毛な行為だと見下している。バナなこと止めてくんないかな。うんざりしてるからお前らの善人コメント見せないでくれる?何でこのお願いは素直に聞き入れてくれないんだろうね?自分の方が正しいから止めないぞって思ってるんだろ?

「思想の自由」とか大仰なことを言う気もないけど、他人の発言を気にし過ぎな連中が多いよ。「私はコレが苦手だ、嫌いだ」って思いも、あっていいし、あるんだよ。未知のモノに対する本能的な防衛反応はあって当然で、それが欠落してる方が「人間としてどうかしてる」だろう。「皆が好きだと言っていても自分だけはどうしても苦手なモノ」だって、皆あるはずだ。食べ物の好き嫌いを話すのと一緒だと思えば、ことさら槍玉に挙げるモンじゃないことは分かるだろうに。それともアレか?こういうの叩いてる連中って、「私はナスが嫌いです」ってコメントを見かけても「ナス農家に謝れ!」とか言うのかか。だとしたら病気だよ。

摂食障害なSNSアカウントに「デブ」ってコメント入れて相手の人生壊れるのを想像して楽しむのが趣味の人が居るくらいだし、育児に悩む母親アカウントに「好きで産んだんだろ」「育て方の問題」って意図的に加害することで自己有効感を補給してる人もいるんだろうなと思います。

善くありたいと状況を改善したいと願う人ほど現実との衝突部分にフォーカスするし、フォーカスしてるぶん余計に苦しむわけなんで。わたしはその傷をいたましいと思うと同時に自傷してでも問題に向き合おうとする姿を愛しいと思う。でもあからさまに弱点だもんね、痛めつけたい人から見たら狙い放題。

こういうとき、加害側は事実を指摘するのが目的ではなくて相手が苦しむのが目標なので、第三者から見たら不正確だったりピント外してることも多い。でも、被害者に刺さって相手が苦しめばいいんだから外野から誤解を指摘されても(わかってやってるんだよバーカ)くらいしか思わない、蛙の面に水。

わざと人を潰すためにやってるヤツまでいるから相当にタチが悪い。

「差別的なこと言ってる奴は死ぬまで叩いていいモノだ」みたいな風潮、気持ち悪いって。個人の生理的嫌悪感や過去の経験に基づく苦手意識とかそういうモノは絶対に存在するんだから、叩いて見えなくしようとしたって意味ねえんだわ。暴徒化した自警団みたいで怖いよ。もっと好き勝手独り言言ってて、相手の話なんか誰も気にしてないインターネッツが良いよ。

スクラムへの違和感

俺は勘違いスクラムに巻き込まれて酷い目に遭ってるんだなということがコレで確定した。

やっぱ時代はアジャイルじゃん

時代で決めない方が良い。 なぜアジャイルやスクラムを導入したいか文書化してみるのおすすめ。

ホントコレ。「モダンだから何?」っていつも思ってる。モダンとか流行とか時代とかって、コレから作ろうとしてるモノがマッチしてるの?そこ確認した?

スクラム(アジャイル)未経験者しかいないけどなんとかなるかな

たいがいなんとかならない。

スクラムマスタが本当にまともじゃないと OJT は無理よなー。

スクラムやれば開発効率あがるよね

あなた次第。
上がる可能性はあるけどグダグダになる可能性もあるよ。
あまり考えずイベントこなすだけでは多分上がらない、というか下がるかも。

クッソ下がったよ。某銀行案件にいた時よりも酷いことになってるよ。

スプリントレビュー

開発チームがデモをしてはダメ。
プロダクトオーナーの気ままな操作を伴うレビューに耐えられないものはそもそも出荷可能とは呼べないよ。

常に「ハリボテで良いからデモしよう」が口癖だったクソスクラムマスタは本当にココを理解してないよな。

スケジュールの管理がうまく行かないっす

スクラム開発で一番陥りがちなのが、スプリントばかり強調されるので、細切れでしか開発を認識できない事があります。
もちろんそれでは良いプロダクトを作るのは難しいでしょう。
ユーザーストーリーマッピングなどを行い、必ず全体像を見据えた上でバックログを作成しましょ。

スクラムの問題点を理解しないままスクラムをやろうとすんなって話だよな。

ドキュメント書かなくていいって聞きました

うん。忘れよ。
どんな手法だろうが必要があればどんなドキュメントだって書く。
カンバンしかドキュメントがないプロダクトなんて地獄よ。

今地獄よりも酷いところにいます。死ね。

バーンダウンしてんのに炎上してんすけど

その消化しているポイントは本当にインクリメントを生み出せていますか?
ポイント消化が目的となるような計画を立てていませんか?
そもそもリソースに対して計画がずれていませんか?

POが忙しくてイベントに参加できません

プロダクトオーナーが不在のスプリントレビューは不可能です。
もし定期的に時間を取ることができないのであれば、無理にスクラムしない方が良いかと。
プロダクトオーナーで進めたとしても結局リリースの直前に一気に検査が行われ、大リジェクト祭りが発生していますよ。

「俺、会議に出なくていいよね」っていう PO だったから、PO もセンスなかったなーって思う。

わかりみ

わかりみを残しておく。Solilog だと何か忘れそうで。

「とりあえずReactでNext.jsでSPAでよろしく!」みたいにやってくる案件を、「ほんとにSPAにする必要あんのけ?」って切り捨てる係をやってた。
もちろん、ほとんどのケースにおいてSPAである必要はなかった。

分かる。流行ってるから React とか Vue とか言ってるヤツ、お前ホントに SPA で一つのシステムを作り上げたことあんの?お前がコードを書いたか?薄っぺらいドッグフーディングと聞きかじった言葉だけで仕事してんじゃねえぞ。

「できれば内製できるようになりたいので、とりあえずReactでお願いします」っていう案件も耳タコくらい聞いてきたけど、そんなマインドで扱えるシロモノではない!ってことだけ。

業務を整理してシステム化するっていう出だしの仕事は何十年も変わってなくて、今もそう。

抽象化層が増えた技術スタックを選ぶということは、実装前の設計で技術スタックや抽象化層を考慮した設計が出来ないといけないので、昔より今の方が設計スキルがより求められると思う。

そんで手続き的に書いたりできない技術スタックを選び、SPA 特有の問題解決をするためのマインドから学習できないなら、React の中で jQuery 使うようなクソコードを書くバカが現れる。

ツールなんて使えば使うほど難易度が上がるんだ。「何かをしなくて良くなる」ツールなんかないぞ。

Write less code

これは、要点を抑えた簡潔で必要十分なコードを、いかに少ない行数で表現できるかに、心血を注ぐということ。

メタプログラミングしろってことではないし、オーバーエンジニアリングなんか以ての外。エンジニアたるもの、ちょうどいいエンジニアリングがしたいなーと。

コード量は、増えれば増えるほどバグを生む可能性が高くなり保守性も下がっていくし、後からキャッチアップするのも大変になる。なので不用意な抽象化は避けて、トリッキーな外部ライブラリも使わず、単機能なものを愚直に組み合わせてコードを書くことを心がけてた。

書いてる当時はキマってたオレオレルールも、時間経ってからみるとなんで?って絶対なるから。いやほんとに、1年も持たずにそうなるから愚直に書かれてて、そこにあるものを読めばわかります状態になってるほうが圧倒的にマシ。

日々のメンテが継続的に繰り返される生きたコードベースや、重厚な事業ドメインが必要な案件に腰を据えるならば、もう少し中間レイヤーを厚くしたりとか、それこそDDD的なエッセンスを拝借するとかもいいと思う。

けど、運用が存在しない受託ワールドにおいては、おそらくこれが正解なんじゃないかなーと思ってる。

分かる。何でもかんでもやろうとしてるシステムって、どれも出来てないんだよな。クラスやメソッド単位で見ると単一責務原則違反があちこちに見られてクソ。明日また書こうと思うけど、ホント思ってたことと同じことが書かれてた。

一貫性を追求する

コードベースにおいて、

  • 変数名
  • エラーハンドリング
  • 関数の大きさ
  • 処理の流れ・債務
  • 引数の順番・構成
  • コメントの書き方
  • ディレクトリ名やファイル名
  • etc...

といったあらゆるものの一貫性を、徹底的に保つということ。中途半端なコードを残さないということ。読んでて「?」ってなる瞬間をひたすらに潰すということ。

普通のことに見えるけど、実際は簡単ではないと思ってる。他の人のコードを読んでると己のムジュンに気付いてないな?っていうのもよくあるので。そういう意味では、整理整頓が得意な人は誰でもそこそこのWebエンジニアになれると思います。いやほんと。

普通の運用案件にも当てはまるとは思うけど、これも手離れよく納品するためにはシリーズかも?

なんかツールの使い方やら新しい技術の〜って感じじゃなく、こういうとこにばっか目が向くようになったの、老いを感じるな・・

「こういうことも出来ないでエンジニア名乗るなクソが」って思ってたけど、最近は「こんなことすら出来ないのが9割なのがこの業界なんだな・俺は天性の才能でデキちゃうからコイツらのことが理解できないんだな」って超偉そうに思うことにしてる。

ホント皆なんでこんなことも出来ないでエンジニア続けてんだろって思う。こういうことに注意することで本質が見えるんや。

Reactの使い方や考え方ばっかを覚える必要があって、本来考えるべきところにリソースが余らないというか・・。(その上でちゃんとThinking in Reactできてる人ってそうそうおらんと思ってるし、自分も怪しいところある)

コレも近い話。「名前が変だなー」とか「色んなことやってるメソッドだなー」とかいうことにリソースを取られてると、本質が考慮不足になるんだよ。いい加減分かれって思うが、一生理解できない連中が9割なんだなって思うことにしてる。

仕事面で一番尊敬している N さん

僕が仕事面で一番尊敬しているのは、前職の N さんだ。前職の他の人を一切尊敬していないワケではない。S さんからも多くのことを学んだし、W さんや NK さんにもお世話になったのだが、一番というと、N さんである。ちなみに現職にはいない。

指示は的確でも口が悪い上司を見ていて、「自分みたい・自分もこうなりそう」と思って怖くなった。こんなの一番嫌いなタイプなのに、自分そのものに見えて嫌だった。指示もクソだし口が悪いだけの上司もいて、どっちかといったらそっちになるのかもしれないけど。

いつもヘラヘラしていて優柔不断で、何考えてんのかどういう思考過程でそのアウトプットを出してきたのか分からないヤツもよくいた。こういうヤツの下で働くのは最初は苦労するが、操り方を見つければ自分の思い通りに操れて楽できたりもするので、暇を作るには向いてるのかもしれない。

N さんは、一見すると感情を表に出さず、マシンのように淡々と仕事をこなすタイプだった。仏頂面でコワモテなワケではないが、ヘラヘラもしておらず、真面目に・真摯に向き合ってくれる感じで、部下としてはガチガチに緊張する程ではないが、ダラけたり、いい加減なことは出来ないな、という適切な緊張感を持てる人だった。誰とも同じ距離で仲良くしていて、嫌う人はいないが、「特に仲良し」というワケでもない。でも誰もが N さんを慕っていて、尊敬している、そんな人だった。

冷静に客観的に状況を分析して、必要な指示を過不足なくできる。要領の悪い部下がいても声を荒げたりすることもなく、笑いも怒りもしていないのだが、嫌味な感じが全くない、誰にとってもちょうど良い感度で接していた。

いつも姿勢よく椅子に座り、個人のタスクは猛烈なスピードでこなしていく。元々スラッとした普通の体型なのだが、気が付くと「ダイエットしてみた」なんていってみるみるうちにさらにシュッとしてみせて、自分へのコミットもキチッとしている人だった。最初に「仕事面で尊敬している」と書いたが、仕事以外の見え隠れする面についても完璧超人で、でもそれに嫌味っぽさが全くなく、純粋に尊敬の念を抱く人だった。

自分だって、N さんとは仕事での関係だけで、飲みに行くとかプライベートでも会うとかいうことは一切なかったが、メチャクチャ仲良くなりたい、もっとこのお方のそばにいたい、この人となら一緒に仕事をしていたい、と思う人だった。なかなかココまで尊敬の念を抱いた人は他にはいない。

自分も、どうせなるなら N さんのようになりたい。口が悪くて部下からすると扱いづらいようなオッサンにはなりたくないし、ヘラヘラしてやり過ごそうとする甘ったれたオジサンにもなりたくない。キチッとしていて、部下を甘やかしも怒鳴りつけもしない、フラットでナチュラルに仕事を遂行し、人を嫌な気持ちにはさせず、なぜだか気持ち良く働ける、そんな人になりたい。

自分がこの先マネージャ職への転向を目指していくのか、それともプログラミングを手放さずエンジニア、アーキテクトのような職を続けていくのか、キャリアプランとしては何も定まっていないが、少なくともどんな姿勢で仕事をしてみせたいかというと、N さんのように働いていたい。他人から尊敬されたいとかそういう理由ではなく。わざわざ人を嫌な気持ちにさせるつもりはないのに、今の自分はそういうことをしてしまっていると思うから、それを改善したい。自分が気持ちよく働いている姿勢として、体現したい。そういう思い。

前職から離れて久しいのだが、久々に N さんのことを思い出し、この人を目標にちゃんと据えようと思い返した次第。

サイトデザインの微調整

この記事のあとにちょっとだけ変えたところ。

なんとなく、コンテンツ部分を少しハイライトさせたいなと思い背景色を調整した。中央揃えのコンテンツ部分とその外側とで、若干色味を変えている。テキストがある部分はより明るい白で、外側はグラデーションで若干暗くしているのだ。

#container {
  --nn-colour-background  : #fffefd;  /* テキストがある、より明るい部分 */
  --colour-background-side: #fdfcfb;  /* 画面左右の余白、僅かに暗い部分 */
  
  --contents-max-width: 52rem;  /* コンテンツ領域の幅 */
  --background-width: calc(var(--contents-max-width) + 2rem);  /* コンテンツ幅に加えてグラデーション分の余白を足した幅を定義する */
  --background-gradient-width: .5rem;  /* グラデーションの幅 (片面分) */
  
  background: linear-gradient(
                to right,
                var(--colour-background-side),
                var(--nn-colour-background) var(--background-gradient-width),
                var(--nn-colour-background) calc(var(--background-width) - var(--background-gradient-width)),
                var(--colour-background-side)
              ) repeat-y center / var(--background-width),
              var(--colour-background-side);
}

こんな CSS にしている。CSS 変数を使うとマジックナンバーに意味を持たせられるが、それでも若干分かりにくいと思う。一言でいうと、linear-gradientbackground-size を使ってサイズ指定してやることで、画面中央揃えにしたボックスに背景色を付けたような状態を再現しているワケである。

もう少し色の違いをハッキリさせたサンプルを以下に置いている。

左右端をグラデーションにさせないならもっと簡単に書けるし、違う書き方もできるな、と思って以下にサンプルを残した。

ブログの記事数を表示するようにした

荒っぽい JS を書いて、Blog ページに年ごとの記事数と、総記事数を表示させてみた。2016年から書いてきたブログ記事数は2,770件を超えているらしい。自分の実績を数値化すると、何となく自己肯定感が高まるので、そのためだけの措置。

しかし最近はもう、プログラミング関係で新しいこともやる気がなくなってしまい、何か書くとすると愚痴っぽくなってしまい馬鹿馬鹿しいので、今後はどんどんブログとか書かなくなっていくんだろうなぁ。こうやって人は死んでいくのかと感じる。

死んでいく

大人が何か新しいものを好きになるためには、努力と継続が必要だ。子供の頃のように、未知なるものへの興奮だけで「好き」まで到達するのは、歳をとるにつれ、どんどん難しくなる。そして新しいものを好きになる努力を怠ると、いつまでも昔好きになったコンテンツばかりを消費し続けることになる……。

次から次にそれっぽいコンテンツに乗せられて上っ面だけを消費してるクソゴミオタクもいるけど、自分は新しいモノが受け付けられず、自分が知っているモノだけを繰り返し消費するタイプで、最近はそれすらも苦痛になってきた。何も飲み込めない。好きだった音楽でも、流していられない。うるさく感じてしまう。全くの無音にすると耳鳴りが辛いので、ラジオなど誰かが喋っている音声を、聞かずに垂れ流し続けている。

精神状態の測り方は簡単で,食後とかそういう仕事外の時間に好きな音楽をかけること.何となく「うるさい」と感じて止めたら精神的には結構まずくて,そういう時はさっさと寝るに限る.音楽を楽しめる間はまだ大丈夫.

一人で生きていても何の感動もない。会社にも幻滅しているし、仕事にも自分の未来を感じない。音楽は聞けなくなり、ギターもなぜ弾いているのか分からなくなってすぐ止めてしまう。パソコンを使うあらゆる作業が続けられない。何もしていないのは手持ち無沙汰でスマホを掴むが、何かを見るのは疲れるからすぐ目を閉じる。部屋を無音の暗闇にすると、頭にくること、恨み辛みがループ再生され、眠ることもできない。でももう目が痛くて明かりを付けられない。

「今までどおりの自分」すら保てない。「20代の自分」「10代の頃のような生活」って、それはもう、メッチャクチャ頑張らないと実現できない。ロクに何もしていないのにヘットヘトだ。脳がどんどん壊死している気がする。何をしたら変わるんだ。このままでは死んでしまう。