自分の不必要な几帳面さはどこから来たのか
昔から持っている、自分の不必要な几帳面さによって、自分自身の行動まで制限されていてストレスになる時がある。
思い返せば、Flash アニメを作っていた2001年頃からそうだった。分からない人は Photoshop とかに置き換えると想像がつくかと思うが、
- キャンバスのサイズは 5 の倍数で割り切れる数
- 配置するオブジェクトは 2 や 5 の倍数で割り切れる位置に置く
- Top : 5px、Left : 10px、みたいな数値じゃないとダメ
…こういう拘り方をしていた。
このクセは HTML や CSS を書いてウェブデザインする時も同じで、
width
やheight
などで指定するピクセル数は 2 か 5 で割り切れる整数にするpadding-top
とpadding-bottom
など、対になるプロパティは必ず同じ値にする- シンメトリな配置にする
- 等間隔な配置にする
- カラーコードは
0
・3
・6
・9
・c
・f
の組み合わせしか選べない
…こういう感じ。
グリッドでキレイに合わせないと気が済まない。デタラメにドラッグして配置するのとかできない。margin-left: 7px
とか、「7 って何!?どっから出てきたのその中途半端な数字は!!」とかなっちゃう。何かの倍数・対数として採用しているワケでもなかったら許せない。
CSS だと line-height
との兼ね合いとかで、padding-top
は大きめに、padding-bottom
は小さめにしておくと、見た目上の余白の空き方はその方がキレイだったりするのに、「上下は同じ値にしたいんだーー!!!」っていうクセが勝ってしまい、内部はともかく見た目が伴っていない、ということがよくある。
Premiere Pro で動画編集している時も、テロップの位置をピクセル単位で調整したりしたくなる。フェードイン・フェードアウトは 5 の倍数の秒数 (コマ数) じゃないとダメ。気分で調整とかできなくて、1コマ1コマ調整したくなる。
「何でもシンメトリにしたい病」に近いモノで、パソコンのコードの配線とか、書類を整える時も、完璧に水平が取れていないとイライラしたりとか、1mm のズレもない状態にしないと気が済まなかったりする。
方眼が書いてあるノートがあると、その方眼の1マスにギチギチにしか文字を書けない。空行を開ける行数も「大見出しの上は必ず2行開ける」「中見出しは必ず1行開ける」などとルール化していて、そのルールを自分で間違えてしまうと、超ゲンナリしてページまるごと書き直したくなる。
しかもそうやって方眼のマスを守って、行間のルールを徹底して作り上げたノートが、別に見栄え良くないって自分で感じるところがまたツライ。コダワったのはいいけど全然キレイじゃないっていう。
2・3行分の方眼を使って、テキトーな大きさで文章を書けて、空行の開け方も定量的なルールはないけど、最終的な見た目は読みやすくなっている、っていう、ああいうノートの取り方ができない。
- 参考 : 【ユニクロU】「似合う人」と「似合わない人」の違いとは!?【プロが徹底解説】 - YouTube
- たまたま見つけたコチラの「大山シュン」さんの動画。4:25 あたりから映るノートなんかが特にそうなのだが、背景の方眼にキッチリ揃えているワケではないのに、読みやすい。こういう「中途半端に方眼を無視した (でも結果的に見やすいキレイな) 書き方」ができない
- 参考 : 【完全密着】中田敦彦の1日ルーティン〜YouTube大学のつくり方〜(1Day Routine) - YouTube
- 中田敦彦の動画。22:22 辺りから映るホワイトボードの記入作業で、丁寧さ・几帳面さは出ているが、文字サイズや行間を完璧に揃えよう、というような凝りすぎな様子は見られない。僕だったら定規を複数本持ち出して、文字サイズや水平を完璧に出そうとしてしまう
フリーハンドで自由に絵を描けなかったり、ギターエフェクターのツマミの位置を「1時間」ごとの角度でしか変えられなかったりとかして、なんで俺はそんな不便な制限を自分に課しているの? と思うことがある。
「気が済まない」とは書いたものの、実際のところは何時間も完璧になるまで病的に拘ったり、他人に強制したりするようなことも全くない。整っている人やモノを見れば気持ち良いなーと思うけど、テキトーな人を見ても「正したい」とは思わず、むしろ羨ましいぐらい。
「上下の Padding の値を揃えたい」のと「最終的な見た目の良さ」のどっちを取るかといえば、最終的な見た目の良さを優先して上下に違う値を入れたりすることも普通にある。ハワード・ヒューズほど酷い症状ではないと思う。電車の時刻表とか全く興味ないし、病気認定までは行かないと思うんだけど…w
動画編集時のテロップの位置とかも、最近は目分量でドラッグして調整とか平気でするようになった。ある程度整っていればいいかな、と割り切れる領域は年々広がっていって、適度にテキトーな人間になれていっている。
でも、方眼をハミ出して書いてみた文字は、どうしても酷く汚い。コレだったらまだマス目を守って書いてた方が、自分が書く文字に関してはマシなのではと思うような。
どうやったらもっと自由になれるんだろう。
フリーハンドで自由に絵を描けるようになりたい。使う色鉛筆の色分けに理由や根拠を持たせず「その色で塗りたいと感じたから」「さっきと違う色で別にいいじゃん」って答えられるようになりたい。赤ペンで雑にメモとか取りたいし、スケジュール帳の土曜日の列を青ペンじゃなくて緑ペンで印付けたって気にならない人になりたい。
自分はどうしてこういう不必要に几帳面で神経質な人間になったんだ?何かキッカケがあったっけ?ピクセルパーフェクトな配置とかって別にそうそう求められることないというか、世の中の大概はキリの良い数字で構成されてなんかいないのにな?
物事に一貫性とか合理性とかを求め過ぎていて、感覚的に操作・制御するのが苦手だ。「見た目でイイカンジに揃える」ができなくてピクセル数で打ち込みたくなるし、音量バランスも波形やピークを見るんじゃなくてデシベル数を 5 の倍数で指定して入力することで何とかしたくなる。自分の五感が信じられないというか、キレイな数字で揃っていると嬉しいというか。ピタゴラスかな?w
こういう生来のコダワリセンサーのおかげで、職業エンジニアとしては他人が見落とす細かいミスをすぐ見つけて修正できたりとか、定量的な管理が必要な場面で数値を扱うのに苦がなかったりとか、うまく活用できている場面もあるが、何でもかんでもキチッとギチギチに揃えようとしなくたっていいのにな、と自分で思ったりする。
もっと感覚で生きてて気持ち良いと感じられるようになりたい。今のところはまだ数値が伴わず感覚でイジったモノがあると若干ムズムズが残るんだよなぁ…w
やっぱコレも病気っすか?w