感情と理性の納得できない不一致

僕の頭がいよいよおかしいですっていう話。

事例自体はどうでも良いことだと思うのでフェイクを入れて説明する。

引っかかったこと

知り合いと「明日ラーメンを食べに行こう」と約束をしていた。が、前日になってこんな連絡が来た。

明日ステーキにはできませんか?それか、明々後日ラーメンに延期したいです。そちらも無理なら、予定どおり明日ラーメンのままで大丈夫です」

この知り合いはそんなに仲良くないとか性格が悪いとかいう、感情的に気に食わないマイナスポイントも多少あるけど、この連絡自体にはそんな失礼なところはないと、理性では分かっている。今回は相手の無礼さとか感じてなくて、相手に対してどうこう思ったワケではないので、あまり重要なポイントではないと思う。

それよりも予め強調しておきたいのは、自分はラーメンでもステーキでも同じくらい食べたくて、それが明日でも明々後日でもどちらでも問題ない、と、理性的には思っている点だ。「絶対ラーメンじゃなきゃダメだ!」とか、「明々後日は予定がある」とか、そういう問題や比較優位はない状況である。

…なのだが、この時の自分は、明日ステーキに変更するのだけは、もう涙が出て歯を食いしばるほど、嫌で嫌でたまらない選択肢だと感じていた。

どの選択肢でも利益や結果に違いはなく、スケジュール的な問題も全くないというのに、その中の選択肢の一つだけが、どうしても選びたくなかったのだ。

…もう一度、整理してみよう。

実際には食事のメニューで悩んでたワケではないものの、食事に置き換えても同じぐらいの感度と思われる、2択 × 2択 の何てことない問題だったのだ。それは理性では分かっている。どれを選んだって問題ないじゃないかと。ステーキだって食べたいし、延期してもしなくてもどっちでも大丈夫。

でもその時の自分は、というか今でもそうなのだが、明日ステーキを食べる、ということだけは、マジで大の大人が泣くほど嫌で嫌で仕方なかった。

「感情優先」と「理性優先」

自分は基本的に「理性優先」な人間だ。「理屈」とか「実利」とか言い換えても良いと思うけど、「コッチの方が性能が良いから、デザインは犠牲にしてコッチを取る」みたいな選び方ができて、感情もそれに自然と付いてくるタイプの人間である。インテリアなんかだと「多少コストがかかろうとも、デザイン優先でコレを選ぶ」みたいな場面もあるけど、いずれにしても理屈で考えて物事を比較・判断するタイプだと思っている。だから衝動買いとか基本的にしないし、「それを選んだ理由」「他を選ばなかった理由」が対外的に説明できるのが普通だと思っている。

僕に迷惑をかけない限り他人がどう生きていたって構わないけど、僕は「気分的にコッチ!」「でも今日はアッチが良いな!」っていう「感情優先」な生き方は好まない。ずっと感覚的なのって一貫性がないし、利益をドブに捨ててる気がするし、見ていて腑に落ちないことが多いから、自分はそうしたくはない、っていうスタンス。

前述の事例は、理性的に見れば「どの選択肢でも得られる効能に殆ど差はない」ことが、自分でも理解できている。相手がメニューか日程を変えたいと申し出てきた理由も、理屈では納得できているし、自分の都合も悪くないので別段異論はない。

なのに、その中の一つの選択肢だけが、そういう理屈や理性を凌駕するほど、死ぬほど嫌なモノに感じて仕方がなかった。突然小指を詰めろと迫られたような、もう何が何でも逃げ出したいと思うようなそんな気分。ココまで自分でも理解できない、説明の付かない感情に支配されたのって、初めてな気がする。

理性と感情の不一致に対する「納得感」

「理屈じゃ分かってるけど、感覚的に嫌だ」っていうような感情と理性の不一致が存在するのは分かるし、自分にだって時にはあることだと思っている。

簡単な例だと、「この尿瓶は使用済みでしたが、完全に滅菌消毒して今は清潔そのものです。コレにジュースを注ぎましたので飲んでください」って言われたら、「キレイなのは理屈じゃ分かるけど、感覚的に絶対飲みたくない」って思っちゃう感じ。コレって、普段は「理屈優先」な人間でも「感情を優先」したくなる場面だし、その不一致に対して自分の中で納得感がある。「汚かった状態を想像しながらジュースを飲むと美味しくなくなりそう」とか、一応説明付けができるから、「実利上は問題なくても選びません!」って言い張れるところがある。

「納得」と書くように、理性と感情が合わなかった時は、上手く説明が言語化できようができまいが、最後は「感覚優先」なモノと言えるのかもしれない。まぁそれはともかく。

でも、今回の件では「何がそんなに嫌なの?」と聞かれた時に、どうしてそういう感情なのかが自分でも理解できなかったことに愕然としたのである。

感情と理性が合わなかったのはまだいい、時にはそういうこともあるだろう。理屈は既に整理した、どの選択肢でも利害は変わらない。それでは感情を大事にして、何がどう嫌なのか感じ取ってみよう……アレ?どうして嫌なんだ?何の嫌悪感なんだ?ワカラナイ……っていう。

頭がおかしいのを認めるしかない

このブログなんかではずっと自分の本心をオブラートに包まず書いてきているので、「こんな傍若無人なヤツがいまさら何を言ってるんだ」と思われるかもしれないが、僕だって一応、「本音と建前」は使い分けられるし、自分の思いを抑えて他人に合わせたりだってする。「お前がいっくら正しくても、お前が大っ嫌いだから少しでも嫌がらせしてえんだよ!死んでも言うこと聞いてやりたくないね!!」って意地を張りたくなるような場面もあるけど、今回の件は少なくとも違った。

相手がどうこうとかいう話ではなく、なんてことのない選択肢を前に、自分でも全く説明がつかないほどの激しい感情が自分を支配したことが恐ろしくて、ほとんど初めてな経験で、ちょっと整理のためにこんなことを書いている。

相手の申し出には、「メニュー変更、延期のどちらも嫌だったら、予定どおりのままでも良い」と書いているので、僕が感情の赴くままにワガママを通して、「いーや、絶対に予定どおりで行くからね!」と言ったって良い状況だ。でも、他人の都合を一切考えない選択肢を自分本位に選ぶことは、気が引ける。そういう人種を見てはイラッとさせられてきたので、自分はそういうワガママな人間に成り下がりたくない、という思いから、ワガママを貫くのは気が引けてしまう。

何より、「そのワガママはどこから?」というのを自分で説明できない、自分の感情に納得感がないのが一番恐ろしかった。

元々神経質な性格なので、予定が崩れること自体が得意ではない、という部分はある。延期できれば、予定変更に対して時間稼ぎができて、心の準備ができるから、「延期かつメニュー変更」という選択肢は違和感がないのかもしれない。でも、この件に関しての「心の準備」って何?メニュー変更は泣くほど負担なことなの?っていう。w

もしコレで自分が癇癪起こして「理由は自分でも分かんないけど、とにかくコレは嫌なんだーーー!!!」って騒ぎ散らしたら、どうなっちゃうんだろう、って思ってた。電車の定位置に座れないと暴れちゃうような、時刻表をずっと見てる鉄ヲタのヤバい感じの人と同類になっちゃうじゃん、って。俺って病気じゃん、って。

内心イラッとしたりしても、その理屈を説明できたり、自制したりもできるから、まだ自分は「怒りっぽいだけ」の「神経質なだけ」で、病的なモンじゃないんだって言い張りたいのに、今回ココで理屈が説明できないまま、この環状に支配されて「絶対にそれだけは嫌だ!!」とか喚いちゃったら、俺は完全な病気であることを認めるしかなくなるじゃん、って。それが一番おっかなかった。


結局今回の事例では、うまいこと相手の状況とかと折り合いがついて、明々後日ラーメンという「延期のみ」パターンで合意が取れたのでそこで終わったが…。

「俺が怒ってるのはコレだけ被害を受けてきたからだ!」とか「いい加減お前のワガママには付き合えない!俺もワガママ言わせてもらう!」とかいうように、多少強引でも、感情に対する理由付けができて、自分の中だけでも納得感があってほしい。

今回はついに自分で納得感のない感情が激昂して、コレに支配されて暴れ回っちゃったらどうしよう、って思って怖かった。最近は薬とか処方されてて落ち着いて来てると思ったのに、どういうトリガーでこういうことになるのか自分でも分からないポイントで、本当に恐ろしい。何をどうしたら良いんだコレ。