事前のアドバイスは届かない・経験しないと分からない

自分も30歳を過ぎて、一応それなりに経験を積んできた。

…そんな知見やアドバイスを語れる事項はいくつかある。それが 100% 再現性のある手法ではないし、例外も多いとは思うが、知っておいたら活用できそうな情報、という程度であれば多少は語れるだろう。

しかし、そういう情報を若い世代に予め伝えたとしても、なかなか伝わらないのが実際のところだ。

例えば、メモを取らない新人社員にメモを取らせることを覚えてもらいたいとする。

という風に、メモが自分だけではなく他人にとっても必要な理由、メモを活用する目的、何が重要か、実際のやり方、自分へのメリット、などなどを懇切丁寧に教えて、当人も「へぇーなるほど!」と納得していたとしても、コチラが目を離すと途端にメモを取らなくなっている。

忠告を聞き入れてくれないのは「俺のことがウザいから反抗している」とかいうワケではなく、本人も「メモは取った方が良い」「メモを取らないと面倒が増えるであろう」ことは、話の上では理解はしている。しかし、真に身に沁みて痛感して、自分の糧にできていないのだ。

そして残念ながら、本人が深く実感して学習するには、周りの教育・指導ではどうにもならなくて、一度自分で「経験」しないとどうしても分からないのだ。


作業者である自分がメモを取らなかったせいで、発生した本番障害の原因が掴めず、総当たりで調査するしかなくなり、チーム全員を残業させてしまった。皆に申し訳ないと思うし、自分も同じ過ちを繰り返したくはない。

そして、先輩である自分としては、後輩たちにも自分がしでかしたような過ちは繰り返してほしくはない、と思うのは当然のことだろう。

みすみす自分と同じ失敗を後輩にさせる必要もないし、今度は自分が迷惑をかけられる側に回ることにもなる。ミスなんかしない方が良いに決まっている、と思うから、予め色々なことを後輩にアドバイスしたくなってしまう。

しかし、残念ながらそういうアドバイスは届かないものだ。


仕事上の定型化できる作業の話なら、必要な作業を事細かにマニュアルで定め、機械的にやらせたりすれば、ある程度ミスは防げる。組織を円滑に回すための対策は、まだやりやすい。当人が真に理解しているかなんかどうでもよく、求めたとおりのアウトプットさえ出ていれば作業者の心情なんか無視できる、そういう場面もあるだろう。

だが、もっと漠然とした「一般教養」とか、生活の知恵というか、他人への配慮、みたいなモノになると、「先に教えておく」だけで身に付けるのは難しく、自分なりに試行錯誤して、失敗も繰り返してみないと、なかなか身に付かないようだ。

自分の後輩、若い世代、子供たちには、「自分と同じような失敗をしてほしくない」と思うから、「こういう失敗が起こりうるよ、だから事前にこういうところに注意して、こうやるんだ!」と色々言いたくもなるが、そういう「自分と同じような失敗」を各々にも経験してもらわないと、身に付かないらしい。

ふと思ったのだが、「けん玉のやり方」を教えただけで出来るようになる人は居ないのだろうな。「紐と球の位置から、こうやって腕を上げて…」などとアドバイスは出来ても、それを聞いただけで一発で習得する人はいない。見当違いの動きをしたり、惜しいところから中々進歩しなかったり、そういう失敗や試行錯誤は各々が時間をかけて繰り返さないと習得できないのだ。


当然ながら、自分も「言われた時には分かっていなかったけど、後で腑に落ちた」という経験はある。

小学校の時、先生が何かの拍子に「押してダメなら引いてごらん」と言っていた。図工の時間か何かで、他の生徒に対しての言葉を何となく聞いていただけで、その時はなんとも思わなかった。

それからしばらくして、放課後に自転車に乗っていたらチェーンが絡まって、ペダルがこげなくなってしまった。一生懸命に自転車を進める方向にペダルを回そうとしていたのだが、一向に直らない。そこでふと「押してダメなら引いてごらん」という言葉を思い出し、ペダルを後ろ向きに何度か回してみた。すると上手い具合にチェーンがギアにハマって、不具合が直ったことがある。

字面だけ見れば、自転車のペダルの回転方向と「押す」「引く」の概念は全く関係ない。でもその時思ったのは、「物事が思ったとおりに行かない時、一見逆効果のように見えるようなアプローチでも試してみると、違った結果が得られ解決の糸口が見えるかもしれない」ということだった。

「押してダメなら引いてごらん」「物事を多角的に捉えよう」といくら繰り返されても、それだけで展開図の問題が解けるようになるワケではないし、課題に対して複数のアプローチを検討できるようになるワケでもない。

既に誰かがやらかしているような凡ミスを自分でもやらかしてみて、効果のなかった対処法も交えて失敗を繰り返してみて、何とかかんとか立ち直れた時に、ようやく「ハッ、あの時先生が言っていた言葉の真の意味は、こういうことだったのか…!!」と、そこでやっと気が付く。このプロセスを各々で踏まないと真には覚えないのだろう。


自分も子供を持つ身になって思うのは、自分の両親がよくぞココまで子供達を黙って見守っていられたなぁ、ということ。

自分の子供なんて他の誰よりも気になるし、心配だし、怪我したり、酷い目になんて遭って欲しくない。自分の子供はまだ年齢的に伝わらないものの、ついつい「それは危ないよ」「代わりにこうするとスムーズに行くよ」「こういうことを知っておくといいよ」みたいなことを言いたい気持ちになってしまう。予め色々知っておけばミスを防げるんじゃないか、自分と同じような過ちは繰り返して欲しくない、そういう思いが一番強く出そうな気がする。

しかし、自分の親は、「学校ではこう過ごせ」とか「学生時代の恋愛はこうしろ」とか「大人は裏でこういうことを考えてるからこうやって対処しろ」とか、そういったアドバイスはしてこなかった。「最初は何も分からなくて怖いかもしれないけど、お父さんもお母さんもそばにいるから、まずはやってごらん。もしも何かあったら助けに行くから」、それだけだった。

親の立場で考えると、コレって凄いことだなぁと思う。特に、自分自身の日頃の行いを振り返るに、僕はとんでもないバカガキだったから、親は心配でならなかったと思うのだが、それでも子供である僕自身に任せてくれた。もちろんフォローも沢山してもらったし、沢山のアドバイスももらった。でも親はもっと色んなことを知っていたはずだ。それでも、それらを全て教え込もうとはせず、「まぁ、自分でやってみてごらん」と委ねてくれていた。

僕が良い年こいてどうしようもない失敗をしてもなお、「ようやく分かったか」などと言うことはなく、そうかそうかと話を聞くだけで、アドバイスも忠告もお叱りもない。コチラが尋ねれば絶対分かっているはずなのに、それを自分から言うことはない。多分だけど、良い意味でも悪い意味でも、「親が言っても伝わらない・聞いてもらえない」ということを心得ているのかな、なんて思ったりする。

僕が自分の子供を信じていないワケではない。親バカと言われるだろうけど、僕の子供はこんな幼い年齢でなんと賢く、努力家なのだろうかと尊敬しているくらいだ。しかし、子供がつまづいたり、苦労している姿を見るのは可哀想な気がしてしまい、アレコレとアドバイスしたい気持ちにもなってしまう。もっとスムーズに物事をこなせたら、子供がより幸せになれるんじゃないかと思って、色々と知っておいてくれたらいいな、なんて思ってしまいがちだ。

確かに、やたらと口出しする大人を見ても「ガミガミうるせぇな」と思うだけで、どれだけ有益なことを言っていても「癪に障る」方が先に来てしまい、腑に落ちないのも分かる。


過去の恋愛を引きずっている友人がいる。キッパリフラれているようなのに、その元カレと復縁したいと数年つぶやいている。

そんな友人に「過去のことはこういう風に捉えてみて、気持ち切り替えて、次の彼氏見つけようよ!ずっと引きずってても幸せになれないよ」などとアレコレアドバイスしたとしても、恐らくその人は変わらないだろう。

傍から見れば「そんなことで悩んでないで、堂々巡りしてないで、次に行けよ」と思うような問題でも、本人がそこで時間をかけてウジウジすることが重要なのだろう、と、最近は思うようになった。


本やインターネットで知識を吸収するのは大切なこと。学校の教育も大事。見て聞いて知ることで学ぶことももちろん多い。

過去数百年、数千年の歴史を本で学んで知れば、車輪を再発明するような「時間の無駄」は減らせるかもしれない。既に分かっていることはスキップして、その先のことを考える方が、効率が良い気はする。

しかし、「自分で経験する」ことは、他の何よりも深い学びになる。

ついつい「効率よく学習したい」「ミスはしたくない」なんて思ってしまいがちだが、世界はそんなシステムにはなっていないらしい。

周りからあっさり「こうやって対処しなよ」と言われてもそれがうまく出来なくて、周りよりもグダグダと時間をかけてしまう。でもそれはきっと、あなたはそれだけ時間をかけないと学習できなかったことで、事前に誰かに教えてもらえば素早く解決できたワケでもないし、時間をかけて試行錯誤して身に付けるしかなく、他にうまくいく方法などなかったのだと思う。

上司、先輩、親の立場から注意をしたくなることもある。命に関わることは引き止めないといけないし、リスクが大きなものはしつこく提言することもあるだろう。ただ、どんな問題も本質的には「本人が経験しないと理解できない」ことには変わらないのかな、なんて思う。飲み込みが早くて、一言いえば全部分かるような優秀な人も時にはいるが、彼らは我々に出会う以前に多くの試行錯誤をしてきただけで、きっと時間をかけて学習してきただけなのだろう。

少なくとも自分と同学年の人と比べれば、学校の教科書に書いてあることはほぼ変わりないはずなのに、何で要領の良さに差があるのか。それは本人のタイミングで、本人が試行錯誤の末に腑に落ちる瞬間を迎えないと「真の学習」にならないからなのだろう。

なんか、考えてみれば至極当たり前のことなのに、こんなことに気付くのに31年もかかった。