学校の勉強は何に役立つのか

「学校の勉強は何の役に立つのか」「難しい数学の話なんて何の役に立つのか」みたいな話。僕は小さい頃からこういう疑問を持ったことがないので、いい大人になってからもこういうことを言っちゃう人達を見てイタターと思ったりするのだが、そういう自分はどう「役に立った」と思っているか、僕の感じていることをまとめてみようと思う。

脳のキャパが広がった

よく昭和時代の「詰め込み教育」が批判されたりするが、僕は割と「詰め込むこと」に意味があったと感じている。そういう自分は「ゆとり教育」の始まり頃の世代なので、詰め込むことの効果を一番実感したのは高3の受験勉強のタイミングだったが。

色んなことを覚える必要に迫られて、何とかかんとか覚えようとする。うまく暗記できなかったり、間違えて覚えていたりすることも多々あるが、それを繰り返している内に、明らかに以前よりも色んなことが覚えられるようになった。脳のキャパが広がるのだ。

またそれだけではなくて、覚えた知識同士を組み合わせて発展させていく力もついたと思う。この力は高校・大学の勉強に限らず、趣味や日常生活、その後の仕事など様々な分野に発展して活用できていると感じる。

イメージとしては、作業机が広くなった感じ。知識という道具が机の棚や引き出しに沢山あって、それらを組み合わせてこねくり回すための作業台が広がった感じ。それまでは狭い机に何もない状況でモノを作れと言われている感じだったが、頑張って沢山の事柄を覚えようとしたことで机が広がり、材料も沢山持っている状態になった感じだ。

「インデックス」が沢山あると柔軟性が上がる

数学の難しい公式を暗記し、電卓を使わずに計算ができる。歴史の年号や人名を正確に覚え、答えられる。こうした表面的な行動だけを見て「暗記することに意味があるのか」みたいなことを抜かすバカタレがいるけど、何にも周りが見えていないんだなぁと思う。

学校のテストで暗記を求められるのは、多くの生徒の学習成果を定量的かつコストをかけず計る手法が他にないからだ。

1組あたり3・40人の生徒がいて、それを一人の先生が見るワケで、先生の時間や体力にも限界がある。かといって負担を減らすにも、教師の人員を全国的に増やすことも難しい。そんな現状で、一人ひとりの生徒の特性に十分配慮して個別の指標で学習度を計ることなど、コスト的に無理があるのは想像できるだろう。それでも生徒が「学べているかどうか」をある程度は計測できないとどうにもならないから、多少乱暴だけど「暗記した知識を使って問題を解けるか」というフォーマットに落とし込むしかない、というのは、生徒の立場でいる間に想像できてほしい。

んで実際、情報を正確に読み取って暗記する能力というのは結構重要で、それが出来ずに育った大人が会社で迷惑な存在になっている。メールや書類の文面を読み誤って勘違いしたり、自分が書いた文章が他人に伝わるか推敲できなかったりする。暗記 (インプット) が出来ない人はアウトプットも出来なくて、また自分が出来ていないことにも気が付いていないので大変迷惑な無能の人材になる。当然昇格などしない。

とはいえ、大人になってから学校で習ったことを全て正確に思い出せるかというと、思い出せないのが普通だろう。そうなのだが、それでも、学校で多くの情報を暗記させられることには意味がある。

それは前述のように「脳のキャパを拡げる」という筋トレの意味合いもあるが、それだけではなく、細かな情報を忘れても、大雑把な索引 (インデックス) が残っていることが重要なのだ。

「三角形の面積を求める公式」を忘れても、それ自体はググれば出てくる。しかし「三角形の面積が分かる公式がある」ということすら知らなかったら、ググりようもなければ、ググって出てきた情報の活用方法も分からない。「公式があって、何かを『÷2』した気がするなぁ」といったおぼろげな情報こそが索引・インデックスで、コレがあるのとないのとでは大違いである。

結局習った知識はほとんど使う・並の大人の常識

学校で習わされたことって、大人になってからも活用する場面は沢山ある。

漢字の読み書き、「作者の意図を答えなさい」、「平均値と中央値を算出してグラフを描いて」、開かなくなった瓶のフタを開ける方法、株式会社の仕組みと成り立ち…。

「歴史なんて勉強して何になるんだ」と思うかもしれないが、じゃあ直接的に有益そうな分野として「お金を生む方法」を勉強しようとすると「歴史」の情報は避けて通れなくなるし、経済の話をするなら「数学」的な思考がどうしても出てくる。料理や生活の知恵の多くは化学的な知識を応用するもので、物理が分かっていれば図工や手芸もうまくなる。デスクワークはほとんど国語力が物を言うし、プログラマになりたかったら英語が分からないなんて御法度だ。営業や接客はそうした知識を幅広く蓄えておき、素早く取り出す「暗記とテストの点数」が問われる。家にあるお皿のサイズと家族の人数から、どのくらいの大きさの食卓を買えば十分か、という計算は「面積」の概念を学習していないと考えることもできない。

生徒「こんなことやって将来何の役に立つんですかー?」
先生「こんなことも出来ない君は将来何の役に立つんですかー?」

学校で習う「程度」の知識は、ほとんど役に立っている。学校で習うことなんて世界の極々一部、最低限のことしか教わっていないのだ。小中学校を「義務教育」と言っておきながら「中卒」というと (アッ…) みたいな空気になるのは、「その程度の知識しかない」という値踏みがされているからだ。

その程度のことしか知らない人は、どこに行っても役に立たないし、重要なことは全然やらせてもらえない。将来なれる職業、もらえるお金にも関わる。もちろんお金が全てではないが、ある程度お金がないと自由な暮らしもできない。誰かの言いなりで仕事するしかなく、ショボいプライドを傷付けられてイライラはするけどそれを打破するだけの実力もない、そんな大人にしかなれない。

「学校の勉強なんて役に立たなかったなw」と言っている大人は、自分が学校の勉強が役に立つような世界に行けなかっただけである。コレはだいぶ低いレベルの人間だ。

勉強しておくと選択肢が増やせる

脳のキャパを拡げ、大量のインデックスを抱えておく。そうすれば、忘れてぼんやりした知識は調べ直しながら、国語算数理科社会の知識を複数組み合わせながら、広い机で思考ができる。その能力は仕事だけでなく趣味や日常生活でも発揮される。他の人が必死に苦労している隣で、自分はササッとスムーズに処理できたりする。それはどれだけ多くの事柄を覚えようとしたか、素早く組み合わせて回答を出すという「試験向けの勉強」をしてきたか、という筋トレが影響する。

そう、学校の勉強は脳の筋トレなのだ。そして、そこで覚えさせられる事柄は大概が大人になっても役に立つモノばかりで、知らないと失笑され、信頼に関わるような常識ばかりだ。子供のうちはその価値、重要性になかなか気付けないと思うが、そういうモノなのだ。コレが腑に落ちるようになるのは、昨日の記事で書いたとおり、自分が実際にそういう場面に陥ってみないと分からないことだと思うが、そういうモノなのである。

全然勉強してこなかった、何も知らない人は、どこに進めば良いかも分からないので、何も出来ない。もしくは、最初に見つけた情報に考えなしに飛び付いて、誰かに騙されたり、全然うまく行かなくて挫折したりする。

もしも「野球一筋」で他の勉強をしてこなかった人は、怪我や体力の衰えでプロ野球選手としての活動ができなくなったときに、後の生活が困るだろう。

色々なことを学んで知っている人は、自分の武器を使って立ち回れる場面が増やせる。野球のプレイヤーが出来なくなっても、人に教えるための知識量が多ければコーチに転身できるし、筋肉や薬剤、人体の仕組みなんかに詳しければ運動科学の研究者になれるかもしれない、統計や数学ができれば試合を分析する実況者になるかもしれない、外国語ができればスポーツ系の通訳の仕事ができるかもしれない。

長い人生、色んなことが起こりうるので、色んな選択肢を予め抱えておくことで、柔軟に生きられるだろう。

大人になってから取り戻すのはメチャクチャ難しい

ちなみに、「大人になってからでも遅くはない」というのは、半分正解で、半分ウソだと思っている。

過去には戻れないし、人生で一番若いのは常に今現在なので、気付いたら今からでも遅くはない、というか、今から始めるしかない。

しかし、「脳のキャパを拡げる」という筋トレを子供の頃にやっていなくて、大人になってからやろうとすると、子供がやるよりも相当しんどいと思う。中途半端に持っている知識が邪魔をするし、脳も肉体も、20代をピークに衰えていく一方だからだ。

こういうことをいうと、「イチローやキングカズの身体能力は未だ高いし」「高齢ではあるがビル・ゲイツやウォーレン・バフェットのような秀才もいるし」という風に偉人を例に持ち出す輩もいるが、特段何の努力もしてこなかった凡人以下の自分を、数十年に渡って血の滲むような努力をし続けてきた超人と比較しても意味がない。

彼らは衰えないかもしれないが、我々普通の大人は、もう衰え始めている。仮に同世代の他の人が出来ていたとしても、自分にはもう残りの人生で一生到達できないこともあるだろう。

人間どこかで老化や衰えは来ると思うし、経済的にも諦めるしかないところが出てくると思う。歳がいけばいくほどその選択肢は狭まっていくので、子供のうちからやるに越したことはないのだ。

見えるようになるまでは見えない

やっぱり、学校の勉強の意味が分からないまま育った大人には、世界が「その程度」にしか見えていない。普通に勉強してきて「え?線形代数って普通に使うけど?」という人達とは世界の見え方が全然違うから、話も通じないのだ。

昨日の記事ではないが、子供の間にこうした真理に気が付くことは難しいのかもしれない。それでも、準備がないと後で厳しくなるので、必要かどうか分かんないで反発するくらいなら大人しく筋トレして備えておけ、その価値は全然あるぞ、と思うワケである。つーか「こんな勉強意味あるんですか?」と他人に問うてる時点で何も分かってないから、人に聞こうとしてる間は黙って勉強しとこう。

もしも、マジで学校の勉強をしなくても世界の人々が豊かに暮らせるような術を編み出せたなら、その時は「こんなの意味あるんですか?」じゃなくて「このような理由で意味がないので、代わりにこうしましょう」と提案してもらいたい。

こういう質問が出るのって、要は「具体的に役に立つ場面を知りたい」ワケではなくて、面倒臭くてサボりたいから言い訳している、っていうのは分かるのよ。「別に、役に立たないよ」という答えが出せれば、この勉強をやらなくても良くなる、って考えてるんだろうね。

めんどくさいことショートカットして幸せに生きられたらいいなと思うから皆サボりたくなるワケだけど、今のところ、サボった奴はその程度の人生にしかならないし、めんどくさいことサボらなかった人だけが上に立って豊かに自由に暮らせている。

いつか「あぁ、やっぱりアレは大事だったんだ」「学校で言ってたのってそういうことだったのか」って気が付いた時に、「やっておいてよかった」と思うか「やってなくて後悔する」かは、今からの行いで選べるからね。