なくそうとして揉め事を増やすのではなく、あることを踏まえて生きられないか

誰に何をされたワケでもないのに、一人で勝手にモヤモヤしていることについて、よく調べもせず感情論で書き散らしているだけの記事。


ココ数年ぐらいそうなんだけど、ネットでニュースや SNS を見ていても「知識を得られて楽しい」と思うよりイライラすることが増えた。テレビも同じで、この1年ぐらいはテレビも見ていないし所有もしていない。SNS に関しては Twitter は辞めてるし、TikTok はつまらなかったし、YouTube で動画を見るか Instagram で写真を見る程度。Tumblr はあんまり見なくなったし、Reddit や5ちゃんねるなども見なくなった。特に Twitter・Togetter のバズる話題がことごとくイライラして気に入らない。拙作の Neo's Hatebu も4年くらい前に作ったモノだけど、今もコレを使って気に入らない話題はなるべくフィルタリングして、イライラする原因を作らないようにしている。

それでも、ネタを投下する方も巧妙で、新たなワードを生み出しては意見を扇動し、NG ワードや NG ドメイン指定をすり抜けてくることが多く、どうしてもイラッとする話題のタイトルが目に入ってしまうことがあったりする。また、YouTube で動画を見ていても、YouTube の収益化を意識した対応が見られてどうも引っかかるところがある。最近特に気になっているのは、

なんかが妙に引っかかっている。


自分は男で、社会的には比較的マジョリティな属性ばかりで構成されているとは思う。男に生まれたおかげで楽できたこと、特徴のないサラリーマンでいるからこそ苦労せずに済んでいること、自然に世間の大勢と同じように生活できていて困ったり被害者側に回ったりした経験が極めて少ないことは自覚している。そして、コレから話すことについて自分のこういう性質と育ちによる「偏見」が多分に含まれているであろうことも、想像は付いている。

電車で痴漢に遭ったとか、奇抜なファッションを揶揄されたとか、胸をいやらしく見られたとか、そういう性的な被害は、あることが望まれるワケではないし、嫌な思いをしたであろうというその本人の感情は、そもそも周りが正しいとか間違っているとか論じるモノではない。それは分かってる。だが、そういう系統の話題をネットやニュースで聞くに、どうしても 「未然に自衛できる余地があったよね?」「一つの被害から社会全体の問題に拡げるのが早すぎない?」 と思って引っかかるところが多い。

男である僕は、常に「痴漢冤罪」を気にして電車に乗っている。電車の揺れや混雑など不可抗力であったとしても、女性に疑われるような接触の仕方をしないように、立ち方、手の位置、携帯の持ち方などを気にしている。そもそもそういうトラブルが発生し得ないように、「自分が座りたい」「楽をしたい」という自分の都合よりも、「女性の隣の席が空いていても座らない」「混雑する電車は見送る」といったリスク回避の方を優先させている。男側だってまぁまぁ苦労しているし、その苦労を認識もせずズカズカと割り込んでくる女を見たりするとイラッとしたりもする。でもそっち側が「この人痴漢です!」と騒ごうものなら人生終わるので、やりたい放題の無神経な女達を見逃しているところもある。

女性側は、自分が痴漢に遭わないようにする対策をどれだけ取ってきたのだろうか。良い悪い以前に、マイノリティに属する珍しい行為をすれば他人の目につくことは明らかなのに、そこは覚悟せず奇抜なファッションをしていて文句を言うのか。一度や二度くらい嫌な思いをしたら、次はそのようにならないように自分から対策を取って回避しようとは思わないのだろうか。そうした対策を強引にブチ破られるほど治安の悪いところに住んでいるのか?そうだとしたらその住まいを変えたら良いんじゃないか?

勿論みんながみんなそうだとは言わないけど、「私側は何もしませんけど世界が私の都合の良いように変わってください」ってふんぞり返ってる感じがする時があって、それがメチャクチャ気持ち悪いんだよね。みんなそれぞれ悩みを抱えて苦労して生きているし、多様性が尊重される世の中だから色んな違いが目につくようになって、全ての人の気持ちを一度も全く害さないように配慮しながら生きるなんて無理だって。


女性だからとナメられて見られたとか、ゲイであることを揶揄されたとか、そういう話。勿論それらは良くないことだねと思うし、皆が住みよくなるに越したことはないよね、とは思うんだけど、最近は「女性の立場を!」とか「LGBTQ の権利を!」とかいって割と大々的に扱われるようになってきたよね。何なら過保護なぐらいで、やり過ぎてスベってる例も見受けられるぐらい。でもさ、それらと対比して扱われがちな「超マジョリティなサラリーマン男性」も、そこそこ苦労して生きてるんだけど、俺らってそんなに良い立場にいないぜ?権利なんかないに等しい扱われ方してきてるぜ?全体から見た割合が多いってだけで、別に良い思いはそんなにできてないぜ? コチラにもコチラの苦労はあるんだが、そんな俺らを引きずり下ろしながらのし上がろうとする人達のこと、よくは思わないぜ。

「あんたらよりも私達の方が苦労して大変なんだから、それくらい良いじゃない!我慢しなさいよ!」って言うつもりなのかな。そちらは「今までやられてきた分をやり返しただけ」「我慢させられてきた分を我慢させ返すだけ」なんて思っているのかもしれないけど、それって何かを改善するための取り組みじゃないよね。「私が楽になりたいからあんたが苦労しなさい」なんて言い分、マイノリティとかマジョリティとかいう立場は関係なく、言われる側は気に食わんって。そうじゃなくてお互いの苦労しているところを少しずつ減らし合う方法はないかなってことを必死に考えないといけないよね。簡単な問題じゃないから答えなんかすぐに出ないけど、だからといって「今すぐ私が楽になりたい!」だけを優先されたら、そりゃ反発食らうって当然でしょ。


「男子からいやらしい目で見られるのを避けるために、女子と男子でプールの授業を別々にしましょう」みたいな話題も見かけた。かと思えば、「トイレが男か女かで別けられているのはマイノリティに配慮が足りない、全て男女兼用のトイレにしたらどうか」なんて話も見かける。いや、どっちもおかしくね?

(一旦同性愛のこと抜きにマジョリティの話するけど、) 思春期に男子が女子を意識してしまうのって、生理的に自然なことだよね。勿論いやらしい目で見られて良い気持ちしないであろう女子の言い分も分かるんだけどさ。女子がイケメン男子やアイドルにキャッキャしてるのって男が見ると結構気色悪いんだけど、そういうの自重してから文句言ってくれる?「私がやるのはキモくなくて、お前らがやるのはキモい」って思ってるんだろ?それコッチも思ってるから。

思春期になって性的なことを意識するのは男も女も同じなんだが、女子のは綺麗で男のはゲス、みたいに決め付けてかかってない?どっちもキメェといえばキメェし、そういうモンだといえばそういうモンで、違いなんかないんだがな。その辺の「知識」を身に付けるために保健体育の授業があるし、そういう性質を知識として知っておいた上で、人に応じて「良い行い」は変わるのだから相手をよく見て理性的に対応しましょうね、っていうのを教育するのが「道徳」の授業じゃん?今になってそういう見当違いな文句を付けて「男女のプールを別ければ良いんだ!」なんて言ってる連中って、保健体育の授業も道徳の授業も聞いてなかったんだろ。いいよ、試しにプールの授業別けてみなよ、何にも変わらないから。そいつらの脳ミソじゃ別のモノを規制したくなるだけだろうから。


LGBT の方々の悩みとか、どういうことで困るのかとか、そういうことは確かに分からない。知らないことが多い。「どう考えても自分は女の自覚なのに、股間にワケ分からんモンが付いている、身体の方が間違っているんだ!」とか、そういうのも、本人がそう思っているのだからそうなんだろうなぁ、としかいえない。

かといって、「というワケで私は性自認が女なので、見た目が男でも女子トイレに入ります!」って言って騒ぐのは、世間を不必要に面倒に仕向けているだけだと思う。

俺だって男子トイレなんか入りたくないよ。立ち小便機とかプライバシーないし、大抵の公衆トイレって汚いし、くせぇし、隣にキモいオッサンが来たりするとウゲェって感じだよ。でも、だからといって女子トイレに入ると大問題になるから、自分の排泄欲が緊急事態で、仮に男子トイレが大混雑していて女子トイレが空いているように見えても、女子トイレに入ることはしないように生きてるワケ。清掃員のおばちゃん達も喜んではいないだろうけど、オジサンの俺達だって異性とはいえおばちゃんにトイレ姿見られるのは嫌なんだけど我慢してるワケ。

色んな人がいるのは分かってる。「男か女か」の2つの区分だけでコレまでよくやってきた方だと思う。でもさ、どこかで細かな差異は無視して大きく括って扱うってことをしないと、公衆の環境って構築・維持できないんだよ。だから自分も、「コイツらと一緒くたに扱われるのは嫌だなぁ」と内心思いながらも、「汚ねぇ男連中」って括られ方をしててもイチイチ文句言わずに生きてるワケ。だから、性自認や性的嗜好や見た目なんかに合わせてトイレの種類を別けて作ってたらままならないのは分かるよね。

かといって一方、男子も女子も同じトイレを使えば良い、なんてことやったら、それこそ性的被害が簡単に増加するのは想像に難くない。盗撮はやりやすくなるだろうし、出入口がハッキリ別れていなかったらイタズラ目的で女性を連れ込むような問題も起こりやすくなるかもしれない。そういった、「自分の要望を実現してもらえた後に起こりうる別のリスク」についてはどのくらい考えてから文句を言っているだろうか?「自分が被害者の立場から脱却できさえすれば、他の人が別の被害に遭おうが知ったこっちゃない」って思ってるんだろうか?まさか。

色んな人がいるけど、細かく分類しまくるのも、一つに統合するのもそれぞれリスクがある。だからコレまでは仕方なく、「生物学的に男か女か」という誰にでも区別が付けやすい特徴をもって、2つに別けることで何とか合意してくださいねお願いします、というやり方で社会が回ってきたのだ。昔からそれが嫌な人もいただろうし、それに反発した人もいただろうけど、「なるべく多くの人が」「不快にならず苦労しないで済む妥協案」として、公共設備なんかはワリキリをもって設計されてきたのだ。

広く多くの人のためにならないのであれば、公共事業としては成り立たない。どうしてもそこには「多数派な属性」「少数派な属性」という区分があり、多数派に属せなかった人が生まれてしまうのは仕方がないのだ。MtF の団体が声をあげたから MtF 用のトイレができたけど、FtM 用のトイレはできなかった、みたいな結果で良いのか?望ましい結果とは思えないだろう。

車椅子の人でもアクセスできるバリアフリーな設計として、階段ではなくスロープが作られてるけど、普通に歩ける健常者向けの階段がなくなってしまうと、数段の階段で済んでいた通路が、長いスロープを通らないといけなくなる。車椅子の人よりも歩く人の方が割合や人数は多いのだが、少数の人に合わせて苦労を強いられることになるのは、良しとするのか?「それくらい我慢してください」で良いのか?

マジョリティ側の既得権益って見方をされちゃうのかもしれないけど、色んな人がいるんだから、そりゃやっぱりマジョリティを中心に考えるのはしゃーないことだって。そこはまず飲み込もうよ、諦めようよ。自分だって特定の分野ではマジョリティで、特定の分野ではマイノリティだったりもする、誰だって色んな性質や属性を持ち合わせてるんだから、適切に遠慮しあい、助け合おうってつもりでいないと。一方的に被害者ヅラで自分達だけ何とかしろって文句言ってても中々厳しいって。「もののけ姫」のアシタカじゃないけど、「双方生きる道はないのか」って姿勢で考えないと。「歩み寄り」って言葉聞かなくなったね。


LGBTQ に関しては、近年割と公にされるようになってきたけど、一方で公にされない話題も見受けられる。YouTube の動画なんかで「死ぬ」とか「殺された」とかいう単語が、「○ぬ」「○された」というように伏せ字にされているのを見かける。誹謗中傷や暴言として書いているワケではなく、歴史の解説なんかで「キリストは処刑された」とか「連続殺人犯が…」とかいうテロップが書かれる時に、イチイチ「○刑」とか「連続○人」みたいに伏せ字にされていたりする。

誹謗中傷などに該当しない、明らかな客観的事実として述べているにも関わらず、「死んだ」と書いただけで垢バンされたりする事例が、どうも実際に起きているようだ。YouTube の AI が表面的なキーワードだけで警告を送ってきたり、収益化を剥奪したりすることがあるようだ。YouTuber としての収益に依存して生活している人達にとっては、そういうリスク回避のために自主規制をせざるを得ないようだ。

しかし、コメント欄などで「『死んだ』ではなく『亡くなった』と書くべきです、ご冥福をお祈りします」なんて書いてる人もいたりして、それはちょっと違うというか、何か自主規制が行き過ぎてないか? と思うこともある。ていうかウチの家系は浄土真宗だからご冥福とか言わんし。そこへの配慮はないんだね?まぁ知識不足なんだろうけど、その押し付けはどのくらい正しい行為なんだろうね?


アウシュビッツのような忌まわしい出来事もあったし、理解し難い犯行を繰り返す連続殺人犯も実在した。人が死ぬのは当たり前。誰だっていつかは死ぬのに、「死」というモノがさも存在しないもの、考えてはいけないもののように隠蔽し過ぎではないだろうか? この言葉狩りにも近い傾向を見ていると、そんな風にも思ってしまう。

誰だって理不尽な殺され方はしたくない。大切な人にはいつまでも長生きして欲しい。家族や好きな人が死ぬ瞬間なんて、悲しすぎて想像もしたくない、不愉快なことなのは分かる。俺もそう思う。でも、それでもあえて言うけど、人って死ぬんだよね。稀なことかもしれないけど、時に理不尽な殺人事件に巻き込まれてしまったりとか、交通事故で死んでしまうとか、そういう可能性だってあるんだよね。それは家族かもしれないし、自分自身かもしれないし、見ず知らずの他人かもしれないけど、「死」は存在するんだよね。

「同性愛者はコレだけいます!」「トランスジェンダーのことも考えて!」という話はおおっぴらにするようになったし、SNS での検閲なんかも表向きないみたいだけど、「かつてこんな酷い殺人事件があった」とか「家族が交通事故で死にました」とか書くと、「はい死ぬとか言ったから過激なコンテンツです BAN しますー」ってなっちゃうの?マジで?それってそんな自主規制入れてくる SNS の方がおかしくない?もっというと、そういうプラットフォーム上の自主規制に感化されて「死ぬという言葉自体使うのは悪」みたいに自警団気取っちゃう思考停止の鵜呑み正論ティー達の知能もどうなのと思うよ。

LGBTQ な人達って存在するんでしょ?分かるよ。それって皆で話し合いたい事案なんだよね?ところで、「死」も存在するよね?何でその話はしちゃいけないの?死はショッキングな話だからダメなの?だからフィルタリングしたくてそういう検閲が入るの?じゃあ LGBTQ の話も性的で、人によってはショッキングな話題じゃない?「まさか女が女を好きになるなんて信じられない!」というような人は大変ショックを受ける話題だけど、その人の気持ちを汲んでフィルタリングはしなくていいの?そういうショックは受けてもいいってことにするの?性に関する話題を大っぴらにすることで、子供に早すぎる性教育をするリスクが発生すると思うんだけどそこは加味してるの?本当に死に関する話題だけフィルタリングしてあげないといけないのか?

いわゆるウェルテル効果、芸能人の死亡報道などに影響を受けて後追い自殺してしまうような問題は勿論ある。死を扇動することも望まないのは当然だ。だがしかし、死というモノの言葉や表現すらも強く規制されて育った子供って、自分が辛い目に遭っているとか、何かで大きく悩んでいたりする時に、その気持ちを表現する術を持たなくなってしまうのではないか?という気もする。「あ、この辛さは、『死にたい』ってヤツだわ」と認識できないと、自分がどうなっているのかもよく分からず、誰に何と言って相談するのが良いのか、道筋も見えなくなってそれこそ気が狂ってしまったりするんじゃないだろうか。思考を言語化するには、言葉を知らないといけない。なのに、「死ぬ」とか「殺される」とか、そういうキーワードが検閲され、よく知らない中で育ったら、どうなるんだろうか。

また、「死」というモノから遠ざけられて過保護に育った子供達って、いざ誰かの死に遭遇した時に、耐性がなくてメッチャクチャショックを受けてしまったりするんじゃないだろうか。子供の頃はアリを踏み殺して遊んだり、その流れでトンボやクワガタなどの昆虫を殺した時に「生から死」に変わる瞬間を感じてギョエっと怖くなったり、飼っているペットが死んで悲しくなったり、親戚の葬式に行って「あの人はもういないんだ」と感じてみたり、そういう「死との遭遇」の段階を経験して、やがて親兄弟や自分自身の死も意識して、死があるからこそ、今を大切に生きるようになると思うのよね。でも「死はショッキングだから規制しましょう!」と、あらゆる「死」をないモノのように扱って過保護に育ったら、ちょっとした死との遭遇で立ち直れなくなるぐらいヘコんじゃうんじゃないかしら。そういうショッキングな経験って、「多少は」しておかないと分からないことってあると思うんだけど、全く経験できない世の中になって、良いモンなんだろうか? それこそ、無知で、世間知らずで、世の中の出来事に対応できなくなるんじゃないかと思う。

まぁでも、今の段階で既に、芸能人の誰かが死んだとか、誰々が性的被害を公表したとか、そういうショッキングな話題に耐性がない人達が多い気はしてる。あいつら自分に耐性がないから、そのショックの処理の仕方が分からなくて、報道規制とか炎上攻撃とかに走るんだと思うよ。自分で自分の気持ちを処理できなくて、誰かに何とかしてもらおうとしてる甘えん坊ちゃんなんだと思う。彼らに必要なのは表現規制なんかではなくて、そういうモノが存在する事実を受け入れられるように世の中を勉強することだと思う。

また、現状不十分な AI によって「死ぬ」とか「殺す」とかいう言葉が表面的に抽出されて「暴力的である」なんてマークされたりしてるけど、SNS を見てると違う言葉を編み出して代用するようになっているだけな例がよく見られる。女性のヒステリックな言動を揶揄する目的で、海外のユーザは Meme を元に「women.」とだけ書いたり、「彼女の名前は Karen だろ」というようなコメントが付いていたりする。日本でいう「まんさん」よりもさらに一般的なキーワードである「women」や「Karen」という語句は、AI がキーワードだけで規制するワケにもいかないが、意味としては「バカ女」「ビッチ」などのような直接的な暴言を書いているのと同じ状態になっているのが現状だ。

F ワードを積極的に使わせていて良いとも勿論思わないが、アレも規制しよう、この言葉も規制しよう、と言葉狩りや表現規制を強化していっても、ある人がある属性の人を下に見て揶揄したくなる、という「思想」の教育変化には繋がらないのだ。むしろ悪口に巧妙さが増していって、物凄く陰湿な誹謗中傷が蔓延しているのに、ワード自体に問題がなさすぎて取締が難しくなる事態に陥りつつある。


自分は、

…という風に思っている。どちらの話題にしても、今の世間が大袈裟にしすぎだと思うし、もっとナチュラルに扱えばいいと思っている。そもそも、今のネットで観測されるそういう言論って、「俺そういう話はしたくない」と言ってる人達に対しても無理矢理話題をふっかけてる感じがして嫌なんだよね。遠慮がないし、この人の味方になりたいと思うようなムーブが見えない。人の神経を逆なでするカチンとくる言い回しばかり目立つ。「死ね」とも「殺す」とも書いてないけど、そう書かれる以上に頭に来るような頭の悪い文章がやたらと目に入る。

「私ばかり酷い目に遭ってる」「皆は良い気なモンですよね」「国が悪い」「現行制度が悪い」「私を大事にして」「「私を見て」「我々に配慮して」「世の中が変わりますように」

甘ったれてんじゃねえよバカチンが。もう少し自己責任論で生きろや。自分にとって納得し難い腹立たしい現実でも、今ココにあるんだよ。しゃーねーだろ。立川談志も「現実は正解なんだ」って言ってた、こんな現実だけどコレを踏まえて自分がどう生きるか対処法を考えて実行するしかねえんだわ。

「自分だけ奇異な目で見られるのが嫌」なのに、「そんな自分達に配慮をして」と特別扱いを求める矛盾。お前ら「平等に扱われたい」んじゃなかったっけ?だったら、特別扱いなんかしない、そして拒絶もしない、っていう、「違いに無関心な社会」になることが望ましいと思うんだけど、やっぱり「誰かよりも自分達をより丁重に扱ってくれ」って思ってんじゃない?そうならそうだって誤魔化さずに言う度胸つけろや。「断固拒否する」って俺は言うけど。

「こんな現状は良くない、なくすべき」なんて思想に正しいモンなんかないんだわ。少なくとも思ったとおりの世界が実現することはまずないだろうな。世界のデコボコの形が、自分の好き嫌いのデコボコとピッタリ重なるように変形するなんてありえると思うか?マジョリティの自覚があったって苦労してて嫌な思いも沢山してる世の中なんだ、自分に都合の良い世界なんてできるワケなくて、できるのは自分のデコボコの形を変形させるか、自分のカドを取って世界と柔らかく衝突できるようにするか、世界と自分が合わなくても仕方ないねと諦めることしかねえんだわ。

世界を変えようなんて随分と世界が見えてない無神経なこと言うよねぇ。テメーなんかたかだか百年も生きない一人の人間なのに、過去数千年、数万年の人類の進化と試行錯誤の歴史もロクに知らず、世界の70億人のその他の人々に影響を与え、自分の死後に残る人々に対しても自分の思想を押し付けて彼らに良い結果を与えると思っているのか?本当に自分のすることが正しいから他人に影響を及ぼして良いと思ってるのか?

もう少し、他人の目線とか、他人からされた言動とか、気にしないで自立して生きてみたらどう?誰かに何を言われたとか、こんな扱いを受けたとか、そういうのって全て他人からの評価に依存して自分の価値を判断してるじゃん。他人にどう見られてるかばっかり気にして、自分を直そうとか向上させようとかいう気概がサラサラないじゃん。世界中の人に好かれ尊敬され受け入れられるなんて無理なことなので、「自分はおかしい部分もあるけど、多少は良いところもあるし、こういう自分で生きてくしかしゃーねーなー」と自分で自分を認めて生きてたら良いんじゃないか?そうすれば他人の目線とか気にならんよ。

自分は他者の多様性をどれだけ把握できているのか。性別は2種類じゃない、とはいうけど「LGBTQ」も一つじゃないし、数え切れないくらいの多様性があるよね。それら全ての人達に「配慮」するなんて、個人の能力の範疇をゆうに超えちゃって、「特定の人だけ配慮している!」なんつって不平等だと文句を付けられる。だからそうではなくて、「あなたも違うのね、あなたも違うらしいね、よく知らんけど頑張って」という、自分の感情を介さずに終わらせる、ある種の無関心さでもって処理するようにしないとやっていけないと思うよ。


種の保存という観点では、ある物事が「生理的に無理」な人もいるし、「全く大丈夫」な人もいる、そういう多様性があるのが自然なこと。皆が画一的な趣味嗜好だと、一つ弱点ができた時に種が全滅してしまうから、種の大半がコレを好むけど、中にはコレを全く受け付けないマイノリティもいる、みたいな差が沢山あるし、日夜生まれる。

社会学的には「寛容のパラドクス」という話もあるが、僕は逆に、「こんな多様性は受け入れられない!コイツらを弾圧してやる!」というような人の存在も観測できてこそ、多様性が保たれた種だなーと思ったりもする。この存在が実際に多様性を奪うようになっていくのも問題ではあるけど、正しさは時代によって変わっていくし、完全排除された性質こそが種の保存の観点では必要だった、ってこともあり得るかもしれない。


ええと、だから、自分はこう思うんだけど、誰もが同じように思ってくれることはないだろうな、とは思う。

でも、多分皆、情報過多で生きづらくて、頭の中がパニックになっているのを上手く処理できなくて、やたらとトゲが立って攻撃性が増してしまっているのかなと思うよ。並の人間の能力をゆうに超えた物量の情報が飛び交っていて、考えなくて良いことまで考えさせられて、自分を保ちたいと思う本能が働いて、他人を虐げたり自分の正当性を強く主張したりしたくなるんだと思う。

情報過多になってる理由は SNS の台頭だと思う。2011年の東日本大震災あたりから、国や政治や権力に対して文句を付けるだけで自分のことは省みない、クレーマー体質な甘ったれちゃんが増えてきたように感じるよ。日本で iPhone 3G が販売され始めたのが2008年。Twitter が「ヒウィッヒヒー」なんつって一般に広まり始めたのが2009年。カカオトーク、Viber などとの混戦を制した LINE が広まったのは2012年頃から。それまでも mixi や前略プロフィール、学校裏掲示板なんかもあったけど、この2010年前後ぐらいからは本当に誰もが SNS をやるのが当たり前になって、一般人、芸能人、批評家、専門家、政治家が同じ空間で言葉を交わせるようになってしまった。知識人達は少なからず自分の立場、利益になるバイアスが存在し、それを踏まえて発言しているのだが、学のない一般人達がそれを聞きかじって勝手な補完をし、「自分も何かいっちょまえなことを言ってマウントを取らなくてはならない」みたいな強迫観念に駆られちゃっておかしくなっていったんだと思う。もう、みんなおかしくなってる。病気になってるよ。

お互いに「俺のことを分かってくれ」と言い合ってても、自分で自分が分かっていないのに相手を分かってあげられる余裕もないワケで、だったら自分のことだけに集中するのが、自分だけは幸せになって、他人に余計な影響を及ぼさない考え方なんじゃないかなと思う。

もっと他人に無関心に、世間の物事に無関心に生きられないもんかな。世の中で何が起こってたって構わないよ、自分には関係ない、って。もっと自分のことだけ見つめて生きられないかね。

他人の領域を侵害するようなことをするから喧嘩になるし、コッチもコレ以上邪魔されたくなくて声を荒げてしまう。誰か何とかしてくれー!って、赤ちゃんじゃないんだからそんな他力本願にバブバブ言うなよ。良い大人が偉そうにふんぞり返って文句言ってるの、マジでみっともないぞ。

「利口な方が黙りなさい」と言うと、利口でない派閥がひたすら殴り続けてくるので、やっぱり最後は暴力でねじ伏せるしかなくなって、酷い結末に陥る。コレこそもうこんな流れ繰り返さなくて良いよね?

あなたもこう考えなさいとか、あなたはこうしなさいとか、他人に指図するようなことは言わなくていい。私のためにこうしてくれとか、私を認めてくれとか、他力本願なことも言うの止めないか。

自分が思ったことを思ったとおりに大っぴらに言わない、っていうのがもっとできてたら、もっと穏やかに自分を良くするためのことに注力して生きられるんじゃないかな?


…最後に特大ブーメランが自分に突き刺さって絶命。w