早く大人になりたいから

「チコちゃんに叱られる!」という NHK の番組で、「子供はなぜ走り出すのか?」という疑問に答える回があった。2022-06-03 放送回。

答えは、「早く大人になりたいから」なのだそうだ。

赤ちゃんは色んな刺激を受けて成長していくが、次第にそうした刺激を自ら求めに行くようになり、走り回ることで運動感覚を鍛えて育っていくのだという。

遠くに楽しそうなモノがあるからそれに向かって走り出す、という場合もあるだろうが、「走り出して育つのだ」という本能的な指令が先立って、目的もなく走り出すのが子供なのだそうだ。


そう言われてみれば、自分も小さい頃は、ワケもなく走っていた気がする。公園や遊園地に行くと、親はノロノロと歩いていて「待ちなさ~い」とか言う。「いんや!待ってられないよ!早くー!!」というもどかしい思いから、親が追いついてくるまでその場をグルグル走り回ったりとかしていた。僕には弟もいたので、何という理由もなく追いかけっこが始まったり、やらなくてもいいのに高いところによじ登ろうとしてみたり、ということは日常だった。

学校から帰る時も、「帰って早くゲームがしたい」といった欲求もあって走っていた気がするが、よくよく振り返ると学校に行く時も走っていたと思う。別に遅刻しているワケじゃなくて、近所のクラスメイトと集合してから走って学校に向かう、走る理由は別にない、ということはよくあった。


僕は今、我が子と月に1回しか面会できていない。子供の成長を毎日は見られなくなり、1ヶ月おきに子供の様子を見ることになるのだが、変な話、そうやって毎日の様子を見られない分、月に1回の面会の時に、子供の成長を細かく感じる部分がある。

先月は段差を登れず四つん這いになっていたのが、今月は手すりに掴まって普通に登れるようになっていたり。親が「ボール」「クルマ」などの単語を言っても一部の言葉しか復唱できなかったのが、いつの間にか自分から発見して発話できるようになっていたり。駆けっこを始める頻度も増えていくし、転倒することもなくなっていく。

そうして走り出す我が子を見ていて、「何かやりたいことがあるから走り出す」のではなく、「とりあえず走り始めてから考えている」ように見えることが度々あった。探検しに行く、冒険しに行く、といった表現が近いのかもしれないが、「あっちに何かがあるから」「これをしたいから」といった動機や理由、目的がないまま、まずはとりあえず走り出している、というのが子供の動きのように思える。

そんなことを思っていたらチコちゃんの番組でそんな話をしていたので、ハァーなるほどなぁ~、と思った次第。


「早く大人になりたいから走っていた」。詩的でもあり、あの頃の自分がどうして駆け回っていたのか、今の自分がなぜ走らなくなったのか、それはいつからなのか、…なんて色々と考えてしまった。

今の僕は単に出不精のデブだから走るのを嫌っているだけなのかもしれないがw、それにしても、「走り出すには理由が必要だろう」という感覚が根本にある気がする。走ると汗をかいて不快だし疲れる、回りからみっともないと思われるかもしれないし足をくじいたり怪我するかもしれない。そうしたデメリットを上回るようなメリットがないことには、走る理由がないから走らない、というような感じだ。

本当は、別に理由なんかなくたって、走って良いのだ。スキップして歩いたって、あえて遠回りしたって良いのだ。ダイエットや筋トレといった目的がなくとも、効果や利益が見えないことでも、何となくやってみるってことがあってもいいはずなのだ。


エンジニア業をやっていると、「A ではなく B を選んだ理由は?」「こういう設計にした目的は?」という風に、一挙手一投足の行動や選択に対して、目的や根拠を求められる。それ自体は、最小コストで最大効果を求めるために、仕事としてはどんな職業でもあることなのだろうけど、こういう経済的・論理的であることを善とした感覚が染み付いてしまうと、やる理由がないこと、何の効果もなさそうなことを避けがちになってしまう。コレって、趣味の時間や人生において考えると、凄くつまらない生き方になってしまう。

自分の人生をかけて目指したいゴール、というのが何らか設定できていて、それに向かって日々努力するのが楽しめている、生き甲斐になっている、というのも、もちろん素晴らしいことだ。稼いだ金額や定量的な目標でなくても良い。自分の葬式で、誰に何と言ってもらいたいだろうか、といったことから逆算して、自分が満たしたい事柄を考え、それを日々研鑽していく考え方は「7つの習慣」などでも書かれている。

それはそれとして、ところで「今」、「今日」の生活をどうするか。それを考える時に、「それをやる意味があるのか?」「目標に対する効果があることなのか?」など考えてしまうと、何も出来なくなってしまう。もっと本能的な欲求や感情に素直になっても良いのかもしれない。

ワケもなく走り回っているうちに、空き地のすみっこに落ちているエロ本を見つけたり、公園の裏の森に足を踏み入れてアオダイショウに遭遇したり。そういう冒険や発見は、くだらなくて、何の得もしなくて、ともすれば怪我のリスクがあるかもしれなくて、誰かに見つかったら怒られるような子供のイタズラだったかもしれない。現実的にそれと同じことをやっている大人がいたら通報案件になってしまうだろうけど、本来は、生物の根源的な本能に従って考えれば、そうした意味も効果もない、効率性もへったくれもない、そんな寄り道、遊び、おふざけがあっても良いのではないだろうか。そんなことを考えていた。


子供のうちは、本能がそうした欲求を呼び起こさせて、体が勝手に走り出していた。大人になると、そういう本能も落ち着いてくるし、現代社会に適応するための理性が強く働きがちだ。理性的で思慮深い大人像もあるべき姿だと思う一方、何の遊びもない、一切ふざけない、お堅いだけの大人というのも、面白くない。本能が体を震わせてくれることはもしかしたらもうないのかもしれないから、そんな大人になってしまった自分を動かすためには、計画的に遊びのスケジュールを入れたりしないといけなかったりするのかもしれない。いずれにせよ、なんというか、子供の純真無垢な姿を見ていると、「俺は何かとっても楽しかったものを失っていたんだなぁ」と思うと同時に、「まだそれを拾い直して、同じように楽しむこともできなくはないんだよな」と思ったりもする。

何の理由も目的もないけど、今日は外に出てみようか。