アイデアの呪縛と幸福

何か凄そうなタイトルを付けてみたが、何のことはない未熟なことを書く。


日々様々なストレスがある。イライラすることが多くなって、ストレスの対処法なんかを調べる。

「あなただけが特別イライラしているワケじゃありません。皆もストレスを抱えています。皆も大変な世の中を生きているのです」などという文章を読む。「なるほどなぁ、皆辛いんだよな、辛い中で皆も頑張ってるんだよな、自分だけが弱音を吐いてちゃいけないな」などと考えを改めて、何とかやっていこうと思い直す。

しかししばらくすると、こう思う。「待てよ?他人が辛いことと、俺が辛いことの、何の関係があるんだ?俺が辛い目に遭っているのはコイツらのせいじゃないか!コイツらが変わりゃ良いんだよ!」

一度こう思ってしまうと、「皆も辛いんですよ」という言葉で救われていた自分を、二度と取り戻せなくなってしまう。あの頃はこの言葉で頑張れていたのに、「な~~にが皆だよww」と思ってしまったら最後、この言葉ではもうポジティブになれない。


「アイツらが変わればいいのに」と思って色々調べると、「他人を変えることはできません。自分の考え方を変えましょう」とか書いてある。「まぁそれもそうだよな、他人や世の中は色々な要因で現状に落ち着いているワケだから、それを変えようとするのは相当困難な話だ。だったら自分の捉え方や受け止め方を変えてやる方がまだ簡単な話だよな」などと考えを改める。

しかししばらくすると、こう思うようになる。「俺が気を使うばっかりで、無神経な連中は自分勝手にのさばる一方じゃねえか!コレをああすれば皆がもっと良くなるのに、一向に改善できないで無駄なことを続けている!バカバカしい!」

「自分の捉え方次第で、厄介な物事を遠ざけ、受け流しましょう」というのは何ら間違ったことは言っていないし、そう思うことで多少は軽くなったのだが、そうやっても受け流しきれない、消え去って欲しいのにいつまでも居座りやがるクソな事象があったりする。「まぁ長い人生、大変なこともあるよな」なんて諦めがつくレベルではなくて、もういい加減相手をバールのようなものでぶん殴ってしまいそうな、大変に腹立たしく、我慢ならない事象もある。

一度こう思ってしまうと、「捉え方次第なんですよね」という言葉では救われなくなってしまう。あの頃はこの言葉で頑張れていたのに、「そんな原始的な話じゃねえんだよ事態はもっと大変なんだ分かってねえだろボケ」と思ってしまったら最後、この言葉ではもうポジティブになれない。


僕の性格的に、二極化思考が強く、対人関係が苦手な「パーソナリティ障害」的な傾向もあると思う。他人の「気持ち」や「心地良さ」を軽んじて、「論理的に正しいかどうか」「数字や根拠があるかどうか」「完璧かどうか」を重視しがちだ。だから、「ノリでやっていけばいいっしょw」なんて甘っちょろいこと言われるとぶっ殺したくなるし、「何となく嫌だなー」とか「気分的にこっちの方が好き」とか言われると「テメーの感情論は聞いてねえ、正解はコレなんだからこうしろよ」という風に思ってしまう。

現実世界と僕の性格とを照らし合わせた時に、「僕が感じるストレスを減らす方法」としては僕が直せばいいだけ、というのが大半の話なのだろうが、30年もこういう性格でやってくるとそうそう変えられない。「他人は変えられないものです」とは言うけど、自分自身もそう易々とは変えられないものだ。

僕がもっと、色々なことを適当にやり過ごして、人と「仲良く」するとか、「曖昧なところもありますよねー」「気持ち的にこっちが良いですよね~」なんて同調できる人間になれば、僕が真正面からぶつけられるストレスは減らせるだろう。凄腕の闘牛士は牛のタックルを受け止めるワケではなく、華麗にかわす技術が高いワケだから、僕にぶつかってくるストレスに関しても、「全力で受け止めてぶん投げ返す力」ではなく、「かわす力」を養った方が良いだろう。

自分のように、「この世が俺の思いどおりになれ」と思っているコントロールフリークな人間に対する対処法としては、もう一つ、「ワンマン経営者になる」ことも考えられる。要は自分の思いどおりにやれるだけの影響力がある立場に出世して、思いどおりにやったらいいのだ。マイクロマネジメントをして、言うことを聞かない社員は即刻クビにして、もっとやれこうやれ出来ないとは言わせねえとにかくやれ何でできないんだもっと頑張れ絶対こうしろ、と怒鳴り散らす。業績が追いついてこなかったとしても、そうやっている間はさぞスッキリすることだろう。喚き散らして、他人を操れるのだから。

さて、そこまで何か頑張ってやりたい仕事があるかというと、ない。他の人ではない、自分じゃなきゃやれないような夢や目標があるかというと、ない。毎日のんびり、のほほんと暮らしたい。子供や家族と遊んで暮らしたい。仕事なんかしないで済むならしたくない。こんな体たらくじゃ「経営者に成り上がってワガママ言う路線」は難しそうだな。かといって、「孤高の芸術家」というのも、生計を建てられるだけの技術を持ち合わせていないしのう。

じゃあ「かわし方」を覚えて今の仕事をもっと適当に続けていくとするか。でも、他人は変えられない、自分もうまく変えられなかった、つまりこの現状はいつまでも変わらない、と思ってしまうともうキツイんだよな。ストレスをかわし続けて、それでも時にかわし切れずストレスに傷つく、その未来が確定している状態でやっていくしかない。毎日我が子と遊ぶ時間が持てたりしたら違うんだろうけど、月に1回じゃ足りない。今のところ、「自分の好きなことがやれている」と思える時間は、我が子と面会する月に1時間程度しかないのだ。

我が子がいる限り、死んでやろうみたいな気持ちにはならないし、我が子に出来るだけのものを遺してやるんだ、何も残せないままには死ねない、という思いは尽きないが、とはいえ、今日一日を生き延びるのは相当しんどい。仕事に打ち込む気力もなければ、趣味や自分のために没頭する元気もない。今日もあのバカ上司をかわすために労力を使わないといけないのか、もう勝手にやっといてくれよ、と毎日思う。出口がないように感じる。

「自分の力で切り開くしかないんだよ」正論は分かるんだが、今コレだけ体力がない人間に向かって「自分の力で」なんてよく言えますなぁ、それで何か解決すると思います?って、あれ?感情論言って甘えてるの俺じゃね?「テメーの感情論は聞いてねえ、正解はコレなんだからこうしろよ」ってか。「論理」を振りかざして「感情」を蔑ろにしてきた人間が弱い立場になると救いがないですね。他人に優しくしておけばよかった…などとは全く思えなくて、ココまで来ても、論理や正論にがんじがらめになっている。「今の俺の戯言は感情論だから、論理的に正解を考えよう、なるほど自分で切り開くしかないのか、その元気はないんだよな、しかしそれは感情論でしかなく正論としては…」その繰り返し。

もっと夢のある話とかしたいなー。楽しいこととかやりたいなー。できるだけ何も見ないように生きて、何もしないで過ごす、コレはコレでちっとも楽しくないんだが、自分の力で掴み取れそうな喜びも、周りから得られそうな楽しみも、全然ないんだよ。困った。