記録と記憶・言語化による区別

モヤモヤとしたことをモヤモヤとしたまま書くよ。

記憶って何だろう。記録って何だろう。そんなことをモヤモヤと考えている。


僕は元来、情報を体系的にまとめる行為が好きだ。整理できずにただ溜め込んでしまう「データホーダー」ではなく、どちらかというと「記録魔」「アーキビスト」的な感じで、ファイル名やフォルダ分けをキチッと整理して保管する行為そのものが心地よく、性に合っていると思っている。そうなったのは、父がカメラ好きで、自分も小さい頃から写真や動画を日常的に撮ってきたことと、ホームページを作り始めたことが大きな要因だと思う。自分が絵を描いたり日記を書いたり、Flash アニメやプログラミングをして何かを作ったら、それをホームページ上で公開する、そこまでがセットになった考え方が染み付いている。

日常のどんなことも記録したい。どこかに訪れたら街の景色全てを記録したい。今はそのような技術がなくとも、例えば360度カメラで撮った映像素材から街中の 3D モデルを作れたらいいな、なんて考えたりしてしまう。読んだ本は全部リストアップしたいし、交換したギター弦のボールエンドは全部コレクションしておきたい。撮影した画像や動画ファイルは消失してしまわないように二重・三重・四重にバックアップを取っていても気が気じゃないし、未来永劫このデータを残し続けたいという思いがある。


最近、20年以上前の自分が映っているホームビデオを見返した。当時10歳前後の僕は既にホームページを作り始めていた頃で、A4 のファイルにメモを書き込みながらゲームをしていた。当時から記録魔・メモ魔な側面が見える…と思ったのも束の間、父が回していたカメラをいつの間にか横取りし、「僕も撮りたい!」とせがむ弟を無理くり引き剥がし、自分の意のままにセルフィを撮影し始めた。話している内容は支離滅裂。身の回りの実況をしているかと思えばゲームの話を始めたり、脳ミソを伝達するシナプスがそのまま垂れ流されているような幼稚さだ。

…なんか、記憶にない自分がいるなぁ…。俺ってこんなことしてたのか。10歳ってもうちょっと成長してるかと思ったけど、クソバカやんけ。w

自分のことは歴代色々と記録を残してきて、自分の意識というのは自分の中では連続的な気がしていたのだが、実際のところ、過去の自分は全くの別人といってよく、記憶にないことを次から次にやっているし、今の自分ならそんなことやらないだろう、と思うようなことも次から次にやらかしている。「子供の頃を忘れてしまっただけ」という感覚ではなく、どちらかというと「(ディープフェイクかなんかで) 捏造された幼い自分の映像を見ている」ような気分だった。コレが本当に自分なのか?今の自分に繋がっていく、過去の自分は、本当にこんなことをしていたのか?そう思うくらいだった。

自分目線で記録してきたことって、やっぱり自分というフィルタを通しているからなのか、いざこうやって「外部から見た自分」の記録を見せつけられると、全然想像と違うなーと思った。昔から「人にどう見られるか」というのが気にならない方だったけど、そういう話でもなくて、「こんなに自分が思ってたことと、周りからの見え方って違うんや…」と愕然とするような違和感だった。

そして、「自分はこんな人間だったはずだ」という記憶についても、この miniDV テープという記録によって完全に否定された。だが、僕の主観では、この「記録」の方が間違いなように思う。「まさか子供とはいえ、俺がこんなことしていたワケがないだろうw」という思いだ。あ、いや、別にカメラの前で物凄く悪いことや犯罪をしていたとかいうワケじゃなくて、ビデオカメラの前で見せる挙動とか、話していた内容とか、単語の使い方だとか、そういうところに表れる「10歳の自分」像が、想像する人格と全然違った、という話である。

それじゃあ、僕が当時書いた日記などの記録は「間違い」だったのか?偽りの自分を記録していたのだろうか?ホームページ上に書いていた日記は、ネタとして話を盛っていたり、個人情報に関するところはウソをついた部分もあるが、そういう意識的に入れたウソのレベルではなくて。映像を見る限り、カメラの中で動いているコイツこそが「過去の自分」なのだが、コイツがこの日記を書いたとは思えない、みたいな。

…ウーン、何を言ってるんだろうか俺は。w ちょっと話がまとまらなくなったので、この話はココで止める。w


写真や動画で日々を記録してきたが、それだけでは残しきれない情報がある。匂いだったり、手触りだったり、あの人の・あの場所の・あの時間の雰囲気みたいなモノだったり。

生まれたばかりの友人の赤ちゃんを抱っこさせてもらった時に、あぁ、ウチの子もこんな香りがしたなぁ、赤ちゃんの肌着の質感ってこういうサラサラした感じだったなぁと、一気にブワーッと色んなことを思い出したりする。

たまーに実家に帰って近所を歩くと、細い路地の奥に錆びれた自販機があって、ココの自販機って地面の傾斜に合わせてコンクリで土台を作ってるから自販機の「足」が高いから、かがんで下を見るとよく小銭が落ちてて拾いやすかったんだよなぁ、そんでしゃがんだ時に錆びた鉄と土と犬の小便みたいな臭いがするんだよなぁー、みたいなことって、この路地の写真を見ていても思い出せなくて、その場所に実際に行くとありありと思い出せたりする。それまでスッカリ忘れていたことなのに、脳のフタが開いたように一気に思い出す。

感覚的な意識や経験のことをクオリアというそうだが、この「クオリア」という感覚的な情報は、今の技術では「記録」に残すことができない。「ウチの地元の、あの路地にある自販機の底を覗き込んだ時の臭い」なんて、何をどうやって記録するのか。w


今までスッカリ忘れていたのに、こうやって何かのきっかけでブワーッと色んなことを思い出すことは誰しも経験あると思うけど、アレって脳ミソのどこに記録されてたんだろうね?AWS の S3 Glacier みたいなテープ媒体の「コールドストレージ」が脳内にあって、何かのきっかけでこのコールドストレージの情報がボロボロっと引きずり出されるような感覚。「ある日一緒に自販機を覗き込んでた土屋くん、そういえば小3の時に教室でゲロ吐いたことあったなー」みたいな、余計な記憶まで一緒に思い出す、あの感じ。w


色んな情報を記録したいという思いはあるけど、記録されたモノと自分の記憶はイマイチ一致しない。じゃあなぜ「記録」したいのか。写真や動画なんて、アングルが固定された、解像度の低い、不完全な記録なんだけど、それでも僕はなぜ記録を止められないのか。

自分の目で見たもの、思い出を大切に生きよう、だから写真を撮ることに躍起になるんじゃなくて、カメラも持たずに街を歩き、我が子と遊ぶ。我が子と遊んだ記憶はずっと自分の中にあるのだから、写真で残すことだけが全てじゃない。それもそうだと思う一方で、とはいえ、「写真になった我が子」や「写真に写る自分」というモノが、後から見て記憶と違ったとしても、「写真なんか撮らなくていいや」とはなかなか思えない。

コンビニでたまたま見つけた限定品のジュースの写真なんかをよく撮っている。「バオバブ味のペプシとかあったなぁー!コレってあの日のカラオケ帰りに買ったんだよなー」といった情報は写真から思い出せるのだが、味は思い出せない。味が思い出せないんだったら、食品の写真なんか撮ってもしょうがないよね……とは思えなかったり。


しかし、僕のクラウドアカウントや、ローカルのハードディスクに眠るこの写真や動画たち。これらは僕の死後、どうなるのだろうか。どうせ僕が残してきた写真なんて、バオバブ味のペプシの写真とか、裏路地にある自販機の写真とか、そんなモンである。このサイト上 (厳密には YouTube やフォト蔵など) で公開している写真や動画なんかも、世間的にどれだけ価値があるかと言われると、別になかろう。僕の死後、誰かが時間をかけてこれらのデータを再整理して、アーカイブとして世界に公開したりするだろうか?

それ以前に、今の自分は?これらの写真や動画を頻繁に見返すかというと、別に見返さない。年に1回とか見返して、あーこんなこともあったなーなんて思うこともあるけど、最近は時の流れを感じて辛くなったり悲しくなったりすることも多いので、以前よりも見返したくなくなったし、そもそも「記録したい欲」が減ってきたと思う。

僕は何のために、誰のために、記録しているのだろうか?なぜ自分でも見返さないような情報を、「記録したい」「記録を止めることはできない」と思い続けているのだろうか。記録して、その先に何が残るんだろう?


写真や動画以外に、文字情報として何かを残すには、「言語化」という行為が初めに必要になる。「あんな自販機があったなー」という映像を頭の中に浮かべるだけでなく、言葉に起こす。その時に、何をどうやっても言語化できない「雰囲気」みたいなモノがある。それが前述の「クオリア」という部分なワケだ。

しかし、ひとたびこの「イメージ」を言葉にしてしまうと、その言葉が指し示すモノ、指し示していないモノとが、ハッキリと区別されてしまう。本当はもっと色々な要素が複雑に混ざって構成されているその「イメージ」を、「路地にあった自販機」と書くことで、色んな「それ固有の独特の雰囲気」を削り取ってしまう。

情報として正確に残そうとするのであれば、寸法がコレくらいで、どこの部品が何色で、どのくらい錆びているのか、現場の土を分析して臭いの元を明らかにして「アンモニアと鉄が何パーセントで混ざった土の匂い」などと書き表すことも、不可能なことではない。が、それでも「それを嗅いだ時の、あの日のうだるような暑さと、珍しく100円玉が落ちていた時の嬉しさ」などという情報はどうやっても正確には残せない。

全ての情報を正確に残すなんてことはできないのに、僕は今もこうしてワケの分からないブログ記事を書いている。別にこんなもの書かなくていい。頭の中にモヤモヤと存在しているモノをそのままほっといたっていいはずだ。でも、何故か、「今の僕がこういうことをモヤモヤと考えていること、そのこと自体を言葉にして残しておかねば・残しておきたい」というような、意味不明な欲求に基づいて、この文章をタイピングしている。


ストレスの原因を紙に書き出してみる。対策を書き出してみる。それによって落ち着く。…というのは分かるのだが、ストレスも色々な要素がモヤモヤと複雑に絡み合っていて、ハッキリと区別できないような事象によってイライラしていたりする。

しかしそれを、例えば「上司がとんちんかんな指示を出してくる」と書いてしまうと、以降はその上司への恨み辛みになってしまう。

だけど、同じことを「上司の指示を理解しきれない、自分の実力不足がもどかしい」と表現すると、自分を責める気持ちに固定されてしまって、本当は上司に落ち度があるかもしれないのに、自分の不甲斐なさばかり感じて落ち込んだりしてしまう。

言語化というのは一種の呪縛、洗脳をかける行為にもなる、ということを、最近よく考えている。そして、ポジティブな言葉はなかなか自己洗脳できないのに、ネガティブな言葉は簡単に自己洗脳できてしまう、という気もしている。

「俺は何でもできる、優秀だ!今日も頑張ろう!」なんていうポジティブな言葉は、その瞬間のやる気は出せたとしても、「それで、今日の成果はどうでしたか?何ができたかな?」なんて考え始めると大変落ち込んでしまう。ポジティブな自分を肯定するだけの材料を集めるのは、努力必要で、労力がかかるからだ。

一方で、「自分はなんてダメなんだ、俺は今後も何もできやしない」といったネガティブな言葉は、その言葉が浮かんだ瞬間からずっと自分の頭の中でループ再生されて、どんどん「ダメな自分」というイメージが固定化されていく。自分の至らない点や課題というのは常に見えているし、「ウン、コイツはダメだね!」という評価を下すのは労力がかからない行為だからだ。

「悪い点を指摘して落ち込む」というのは、一日中何もしなかった人間であっても出来てしまう、とても簡単な行為だ。一方、「頑張った、よくできている点を見つけて肯定し褒める」というのは、実際に頑張らないといけないので、体調不良でやりたいことができずに、何もしないで一日が過ぎていった日に自分を元気付ける言葉というのは早々出せない。

そんなワケで、何でも言語化して情報として残したい欲があると、僕はモヤモヤした曖昧な状態に我慢ができなかったり、言語化できない部分をないがしろにしてしまったり、成果ベースで言語化してしまうので「今日も何も出来なかった」と思ってしまい、この言語化によって「俺っていっつも何にもできてねえじゃん」という印象を強く付けてしまう。悪循環だ。


モヤモヤしたことを整理したい思いもあるけど、整理した結果ダルくなる、みたいな。整理の過程で削った「取るに足らないこと」「特筆するまでもないこと」を、全くなかったことのようにしてしまうと認知が歪むような気がする、というか。

「雨の日もあるさ」って言われてもねぇ、晴れた気持ちになりたいんだから何とかしたい・何とかしてくれって思っちゃうんだわな。