自分を楽しくさせる技術

まーた意味深なタイトル付けて、空っぽなことを喋るよ。エチゾラムが効いていてフワフワした感覚の中書いています。


僕は普段在宅勤務で、朝起きたら会社のパソコンを開き、夕方まで家で仕事をする。この冬の季節になると、17時を過ぎると外は真っ暗になり、仕事が終わってから外に出るのは中々気分が上がらない。

もし出社させられていれば、会社からの帰り道についでに本屋に寄るとか、楽器屋にでも行って外部の刺激を得やすいと思うのだが、ずっと家にいると、わざわざ出掛けないといけないので、心理的ハードルが高い。

そうすると家の中で楽しめそうなものを探すのだが、YouTube も大体自分の好きな領域は見尽くしたし、仕事中に BGM として垂れ流せるネタも尽きた。他には何かないか、と思っても、観たことのない字幕映画をアマプラで観る、みたいなことはさすがに仕事中には厳しいし、仕事が終わってから映画を観る元気もなくて、大抵の平日は仕事が終わったらほぼ即寝ている状態。

こうなると運動不足も祟って、体のあちこちが痛い。余計な刺激が降ってこなければメンタル的にはフラットでいられるんだけど、仕事でバカみたいな打ち合わせに巻き込まれたりすると、ついついカチンと来てしまったりする。そうなると頭痛も悪化するし、1日2日くらいは根に持ってしまって不調になる。だいたいそんな日々をやり過ごしている。


ところで、「喜怒哀楽」という言葉があるが、「喜」と「楽」ってちょっと被ってない?と思って調べてみた。いくつか文献を読んだ限り、こんな区別がされているようだ。

ふむ。そう言われてみると、僕は「楽」、外部からの刺激を求める傾向にあり、自分の努力や工夫でもって「喜び」を掴みに行く、という行動が少ない気がする。

昔はホームページを作ったり、Flash アニメに ActionScript を組み合わせたりして、何かを作り上げた時に「やったー!できたー!」といった喜びを感じていたと思う。ギターで何か好きな曲をコピーした時の達成感とかもあった。フリーランニングをやっていた頃は 540 Kick やロン宙などの技が出来るようになると嬉しかった。SE という仕事を始めてからも、新たに学ぶことがあった新人時代はそれなりに達成感や満足感があったが、ここ5・6年くらいは、そういった自分で掴み取りに行く喜びという経験が極めて少ないと思う。

テレビや SNS は典型的な「外部からの刺激による娯楽」であろう。見る内容が芸能人のスキャンダルネタのような陰湿なモノでも、当人がその外部刺激によって何か満足感が得られるならそれは「楽しめている」ことになるのだろう。僕は Twitter を完全に止め、Instagram もさほど見なくなった。家にはテレビもないので、外部刺激として受けられる娯楽というと YouTube ぐらいしかなくなっていて、それも大体見尽くしてしまった感がある、というのが今年2022年の感想。

もう少し正確に言えば、面白いことをやって発信している人は継続して一定数いるのだろうけど、僕がそれらを楽しめるメンタルじゃなくなった、僕が楽しいと思える範囲が狭まった、というのが正しい表現だと思う。


「フリーランニングをやっていた頃ぐらいまでは喜びがあった」と書いたが、それももう10年以上前の話になる。2013年に会社員になってから9年。全てが全て悪いことばかりではなかったけど、僕の根底には「仕事はやりたくないし楽しめないもの、全てはライスワークだ」という考えが何となく存在する。自営業の人とか色々いるけど、僕はどの職業に就いたとしても、「ライフワーク」にはできそうにないなと思う。特に SE として時間を売ってお金をもらうという形態を経験してしまうと、勤務時間が決まっていない営業のような仕事や、クリエイター業みたいなモノも自分の性格的に合っていない気がする。強いて言えば「一人で何かを作る」が一番ストレスなくやれることだが、それで生計を立てられるだけの何かをやれるか、やる気があるかというと、ない。

僕は割と小さい頃から、他の子と比べると「自分からやりたいと思って始めること」が少なかったと思う。一人で気の向くままに遊具で遊んだりするのは好きだったけど、それもその日の気分次第でコロコロ変わっていた。何人かで集まって野球やサッカーをする、といった遊び方は「苦手」に感じていた。その友達が嫌いだとかそういうことではなく、何人かで決められたルールに則って何かをやる、っていうそれ自体が、あんまり好みじゃなかった。

自分はどうして、自らが楽しいと思えるモノ (喜び) を見つけにいくのが苦手なのか?という疑問はこれまでずっと漠然とあったのだが、一つ理由として考えられるのは、家族旅行かもしれない、と思った。いや、これはこじつけなんだろうけど。

我が家は旅行好きな父が、ほとんど毎週といっていいほど旅行に連れて行ってくれた。世のご家庭ならお父さんの方が言いそうな「休日くらい家でゆっくりさせてよー」という言葉を、僕や弟が発していたという変わった家庭だった。午前4時に叩き起こされ、寝ぼけたままクルマに乗せられて、気が付くと「こどもの国」や「サイクルスポーツセンター」のような地方の広大な施設に着いていて、朝から晩まで遊び倒し、ホテルでも室内プールでルール無視の飛び込み大会を繰り広げるという、2022年の倫理観で言ったら一発で炎上するような大騒ぎをしている家庭だった。意図して物を壊したり何か盗んだり、といった犯罪行為こそしなかったが、子供でも許されないぐらいのそこそこのマナー違反を、親父も混じってやって遊んでいたから、冷静で真面目な母は相当苦労していたことだろう。w あの頃だからまだなんとかギリギリ炎上せずに見逃されてきた、運がよく、幸せな時代だったと思う。

そんなワケで、僕の幼少期は、土日になると親父が全自動でメチャクチャ楽しいところに連れて行ってくれるので、毎週が楽しく、何不自由なく遊び尽くした日々であった。

しかしコレは、裏を返すと「僕自身が探し出して、試行錯誤して生み出した楽しいモノ」ではなく、全て与えられた「楽しいモノ」であったところが、ちょっと違うところである。仮にだが、僕の父が「土日は家で休ませてくれよー」と言うようなタイプの親だったら、子供の自分達は、家でゲームするか、公園にでも行って何か自分達で楽しみを探すしかなかったであろう。そういう経験がないワケではないが、僕はどうも、自分の創意工夫で、自分自身に喜びを生み出してあげることに対する経験が少なく、そういう技術が少ないように感じている。

両親には最高の幼少期を送らせてもらって感謝しかない。旅行に行かなければ良かったなんて全く思わない。今こうして多少考えていることについても、何一つ「後悔」や「恨み」などといった感情はなく、あくまで「原因と対策」を考えるために色々と振り返っているだけなので、そこだけはちゃんと両親に誤解のないよう、お礼を言いたい。そうした僕の育ち方はそれとして、じゃあこれからどうするか、なのよね。


先日、数年ぶりに音楽スタジオに行ってきた。ミキサーの使い方が分からず、調整不足のギターはチューニングが狂い、適当な音源を流しても全然上手く弾けない。

自宅でギターを爪弾いている時は、マンションなのでアンプを通さず生音で遊んでいた。錆びまくった弦でもお構いなしにエレキを生音で鳴らしていたためか、弾き方のクセが無茶苦茶になっていた。良くいえばアコギの音の鳴らし方みたいな、複数の弦をできるだけ沢山鳴らす、みたいな弾き方をしてしまう。エレキでも生音で聞いている分には特に気にならないのだが、いざギターアンプに繋いで、軽くゲインを上げると、こういう音の鳴らし方をするとただただ濁って聞こえてしまう。エレキギターはミュートが命で、できるだけ必要のない音を鳴らさないようにする楽器なのだ、という大原則を久々に思い出した。

自分がやりたいのはアコギでのソロギター演奏とか、弾き語りに近いことなのかもしれない。全部のパートを一人で弾けたらいいな、みたいな思いはずっとあるので、エレキでやることじゃないのかもしれない。それはそれとして、エレキギターやエフェクターを持って行って、上手くエレキらしい音が鳴らせなかったり、「1曲通して弾けるレパートリー」がないことに気付いたりして、久々のスタジオの雰囲気は楽しかったと同時に、自分の「趣味ギター」に対する課題をいくつか感じる結果だった。

「表現」と「表出」という言葉がある。「表出」は、意図せずに勝手に出てしまうもの。とっさに出てしまった言葉や態度が「表出」になる。一方、客観的に分かるように、工夫して発信されたモノを「表現」と呼び分けるそうだ。

僕が家で爪弾く生ギターは、ただの僕の手癖の「表出」であり、それを自分の耳で聞いても自分のフィルタを通して再取り込みするだけなので、自分の中ではあまり違和感がない。しかし、アンプから出てくる自分の音が聞くに堪えないと思った時に、「表出」と「表現」の違いを実感した。他人に聞かせるための音が、僕には出せていない。「君は何か頭の中では考えているのだろうけど、私にはそれが何なのか伝わってこなかったよ」というような、虚しい音に感じた。エレキギターの特性を知って弾き方を調整することもだし、アンプやエフェクターの設定もだし、そうしたことを積み重ねて、他人が受け取りやすいモノを発信できないと、内に向かい過ぎている気がするのだ。練習段階では多少「表出」するモノがあっても良いだろうし、表出の全てを否定するワケじゃないが、「聞かせる音楽」にするには相当な工夫と練習が必要だぞ、と思った次第。

また近い内にスタジオに行きたいなと思うが、何かこう、目標やテーマを決めておかないと、家で爪弾いているのと何ら変わりない時間になってしまいそうだ。何か課題曲を作るとか、スタジオで録音した音源を YouTube にでも載せて評価してもらえる程度のクオリティに仕上げてみたいなとか、そんな感じで目標を定めて練習していくのが良いのかな、なんて思った。コレが、自分で喜びを得るための「程よい目標設定」になるのかしら。

趣味だから、遊びだからといって、完全にダラダラしているだけだと、何かこう、自分が向上している感覚もないし、変化もなくなっていってつまらなくなっていくと思う。だから、遊びなんだけど、あえて自分に少し緊張感を持たせるために、課題を課したりして、スタジオに入ったら余計な音は出さない、一発で成功させに行くんだ、みたいな真剣さをもってやるのも良いのかなーと思った。変な義務感にかられて疲れない程度に、しかし無益な時間にもならないように、程良くプレッシャーをかけるのが大事なのだろう。


仕事については過去にも何度か書いているが、僕は新卒入社した最初の案件が「要件定義フェーズ」から携わることになって、設計・実装・テスト・リリースと約1年半のフォーターフォール開発案件を経験し、そこから2・3年そのシステムの運用保守や障害対応をやってきた。入社2・3年目にして、システム開発の頭からケツまでを一通り経験してしまったことで、以降別の案件に携わったりしても、「前やったことの繰り返しだ」という感覚が強く、段々とこの仕事がつまらなくなっていった。周りを見ても僕ほどまともなコードが書ける人間もいないし、リリース後の運用保守フェーズを見据えた設計が出来る人も凄く少ない。クラウドネイティブ時代だとかコンテナ活用だとかいくら言っても、ロクな資格も持ってない連中同士が「自分の今までの経験」だけを元に設計するから、「頑張ったのだろうけどクソ」なモノしか出来ない。いつまでも非効率で無駄の多い仕事を繰り返し、手戻りも障害も多い。それでいて本人達は日々の仕事で疲れた「疲労感」を「達成感」と勘違いしているのか、あんまり反省や改善が見られない。

明らかに二手先で障害にぶつかるよと警告してるんだが、そこにチーム一丸となって突っ込んでいって「あっれーおかしいなー?」とか言ってるバカリーダの言葉を聞いてゲンナリする。俺だけが何かおかしいことを言っているのだろうか?俺の考え方は間違っているのだろうか?皆どうした?っていう気持ちだけど、おかしいのは俺だけなのか?そっちのそういう無計画なムーブの方が正解なのだろうか?

「僕は詳しくないですけど、多分数行のスクリプト書けば行けるんじゃないですかね?」そんな呑気な言い方で自作スクリプトを入れることを決めたら、それを保守しなきゃいけなくなるんだぞ?数行だろうがバグらせたら本番障害でお客様に迷惑がかかることだし、自分達の首も締めることになる決断なんだが、本当にそれで行くつもりか?「俺には青信号が見えてるからノーブレーキで突っ込んでも大丈夫だろう」って言ってるのと同じように思う。完全な「だろう運転」駆動開発で、僕の元来の性格とは全く合わない、だらしない連中しかいない。

しかし最近は、大分それについても諦めがついてきた。僕は多分他人よりも色々と早い内から経験ができて、知識量も多くて、先が見える能力を持っているんだけど、だからといってそれを他人に強要してもいけないんだな。彼らには彼らのペースでミスを犯し、酷い目に遭う権利があるのだ。俺の責任回避のために「俺が忠告したこと」の記録は残しておいて、「あなたが本番障害を起こしても俺は巻き込まないでくださいよ」っていうのは言い続けるとしても、チームやメンバがダメなムーブをしていて、愚かなミスを続けていても、それを放っておいて見守ってやらないといけないんだなと思った。この仕事は自分一人でやれる範囲ならともかく、他人と一緒に何かをやるとなったら効率的には回せないモノで、ずさんな計画を立て、安易に「想定外の事態」が起きて、皆が無駄だなーと思いながらその仕事を続けていく、そういう業界なんだと思うことにした。

そういえば僕は、この案件で作るシステムについて、僕が利用者になることもなければ誰かのためになりたいとも思っていない。何がどうなろうと知ったこっちゃない。僕の性格上、予め準備をして、キチンと設計をドキュメントに残して、それどおりに作る、っていうことをやれた方が、僕の心理的負担は少なく、気持ちよく仕事ができるのだが、そういうことを望む人がチーム内や客側にいないのだったら、俺はもっと手を抜いて良いってことだ。ちゃんとやる必要なんかないのだ。一生「そんな雰囲気で」「そんなイメージでいけると思う」「分かればいいよ」なんていう曖昧な言葉が飛び交う現場で、キメラを生み出すのが俺の仕事なんだと。物事を正しい方向に進めて、誰かの役に立つような効果のあるモノを作るのが仕事じゃなくて、曖昧な指示を曖昧に受け取り、何なのか分からないモノを提出して、上司の責任でもって全てを回してもらっとけばいいんだなと思うようになった。僕はもう何かを分かろうとする気力もないし、物事を良い方向に改善したいとかいう気も失せた。

皆、想像以上に仕事をテキトーにやり投げている。後先考えず、応急処置のパッチ当てで何とかかんとか仕事を回している。それをシステム屋として綺麗にやろうとか効率よくやろうとか、そんな発想はない。「IT 土方」なんて表現もあるが、少なくとも僕の感覚から周りを見ると、土方なんかよりも酷いと思う。日雇いの素人バイトに短期の仕事を任せているのと大差ないような、そんな雰囲気だ。

…でも、仕事って、そんなモンで良いのかもしれない。少なくとも、僕は仕事において何を実現したいとか、こういうプログラミング技術を使いたいだとか、上の立場に立ってこんな風にチームを回したい、とかいう欲もなくなってしまった。無益だとは思うが、それでお金がもらえてるなら、まぁそれに付き合ってやっていくことで良いか、という気分。今までは多少楽しいこともあったが、もう完全になくなったから、仕事に楽しさを期待するのは止めよう。まさに「ライスワーク」、生活のために仕方なくやる仕事に落ち着いたのだと思う。

元々パソコンで何かを作ったりするのは好きだったし、几帳面な性格が活かせた現場では顧客レビューがすんなり通った良い設計ができたり、障害対応の原因特定と修正をエレガントに出来た時は楽しかったりしたのだが、「仕事」なので、そんな楽しいことばかりじゃない。「人間」とかいう一番曖昧で扱いづらいモノが存在するので、思ったとおりになんて行かないのが常であり、「自分のやりたいこと」なんて話を会社で考えること自体が間違っていたんだ、と思うことにした。

なにも仕事の妨害をしてやろうとか、わざわざ迷惑をかけてやろうとかいうつもりもない。でも、「コレだけのバカな連中が、意味不明な指示を出してきて平然とした顔で生きてるんだったら、俺の労力もそのレベルまで落とすね」っていう気分。仕事のムカつくことを「かわす」ようにしていこう、っていうことですな。


僕は小さい頃からホームページを作ってきたからか、タイピング速度はそこそこ早く、頭の中で考えていることは大体そのままのスピードで打ち込める。それはスマホでも大体同じで、「文字に書き起こすこと」と「口で喋ること」の間には、あまり差がないように思っている。

しかし、大抵の人は「口で喋る時はうまく伝えられるんだけど、文字にしようとするとうまくまとまらないんだ」といったことを言ったりする。まぁそういう奴らが口で喋ったことで話が理解できたことは一つもないので「うまく伝わるはず」という思い込みは捨てて欲しいものだが、それにしても、手書きにしろタイピング入力にしろ、文字に書き起こすことが苦手な人って結構多いなーと思っていた。

周りの人の話を色々聞いている内に気付いたのだけど、やはりタイピングの速度が遅い人は、「頭の中で推敲した内容を、ようやく打ち込む」という感覚だから、「話し言葉」と「書き言葉」の感覚が大分違って、それは他人の文章を読む時にも感覚が違うようだ。

例えば僕なんかは、口で喋った時と、文字チャットでのやり取りとで、ほとんど「差」を感じていない。真面目な話の中に、今この人が思いついた皮肉を混ぜたなーとか、直接的な表現を避けたくてこの言い回しにしたんだなー、みたいなことは会話・文章のどちらでも大体読み取れていると思う。

しかし、テキストでのやり取りが苦手な人は、口で喋った時の「ハイここ皮肉のつもりで喋ってますよー」「この僕の表情も見てください、自虐ネタを冗談のテイストで喋ってますよーさぁ笑ってください!」みたいな非言語部分の情報をかなり重視していて、その発した単語一つひとつの正確さやニュアンスではなく、声量や声のトーンの変化なんかで判断している部分が多いのかもしれない。そして「テキストでのやり取りは時間のかかる作業だ」というバイアスがある人にとっては、「書いて伝える情報はちょっと特別なモノ」という思いがあるようで、気軽に話しかけたつもりがキツく伝わってしまっていたり、こちらは至って明るく返事をしたつもりなのに、変に裏を読まれて誤解されたり、といったことがちょくちょくあった。性格の悪い僕なので、わざとトゲのある言葉を使うようなパターンもないことはないが、全く意識していなかったところで、何なら笑ってもらいたいと思っていたところで、「ちょっと心配になりました」とか言われると、「あ、俺って表現が下手なんだな」って思ったりする。

でもねー、口頭で話すのって、家族とか相当仲の良い人じゃない限り、僕はイライラしちゃうんですよー。仕事上の人間と会話をする、って思っただけで身体的な不調が出るほど嫌な行為なんですねー。仕事上の会話はテキストで記録も残したいし。だからチャットで済ませたいし、私情に踏み込むような余計な雑談もしないようにしてるんだけどー。

こちらは思ったことを思ったままのスピードでタイピングできちゃうから、特にチャットや LINE みたいなリアルタイムに書いて投げた言葉は「表出」に近くて、「表現」や「他人目線での配慮」に欠ける場合があるのだと思う。不必要に大切な人を心配させたり困らせたりはしたくないので、反省。仕事相手の連中はどうでもええわ。w


僕は時々、YouTube で量子力学の動画を見たりしている。文系人間なのでホントに触りの知識しか知らないんだけど、宇宙とか時間とか、「二重スリット実験」の話とかが好きだったりする。

二重スリット実験というのは、素人が雑にまとめると「光の正体は波なのか、点なのか」を調べるために実験したところ、「波っぽい性質も見せるんだけど点っぽい性質も見せる」「電子の一粒を1個ずつ投げても、お互いが干渉してできる『波』みたいな現象が起きて、めっちゃ不思議や…」っていう話。どうも「人間が観測しようとするかしないかで結果が変わる」としか思えない実験結果が出ているそうで、かなり奇妙な話だ。

思考実験として「シュレディンガーの猫」という話が有名だが、量子に関してもそういう「重ね合わせ」という性質が見られるそうだ。平たく言うと、物質を構成する電子のような微小な世界では、その電子が止まっているのか動いているのか、といった状態が単一に決まっているワケではなく、複数の状態が「重ね合わさって存在」していて、それを人間が観測した時点で状態が確定する、という性質があるそうだ。「量子テレポーテーション」とかの話もめちゃ面白い。

この辺、科学的にまだ解明しきれてる話じゃないし、僕の理解も素人が雑学本を読んではえ~~と思ったレベルで間違いも多いだろうが、大枠としてはこんな感じで、量子力学における「観察者効果」というのが中々面白いなーと思っている。

そういえば、映画「Tenet テネット」は、エントロピー増大則と反粒子の挙動に関する仮説から、「時間の逆行」を映像化した SF 映画だ。映画内では、「世界の時間の流れを逆転させる」のではなく、自分が特殊な装置によって「反物質」となることで、時間を遡っているかのような動きができる、ということになっている。それは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のような「未来や過去を変えられる」という考え方ではなく、決定論的な考え方、つまり「逆行する人がいた」という事実すらも織り込み済みの世界だからそれが成り立っている、という設定になっている。

実際のところ、もし世界の時間の流れを逆転させたいと思ったら、世界中の粒子の動きを反転させるだけの反物質の制御が必要になるのだそうで、だから過去へのタイムスリップは無理だろう、なんて仮説が出ていたりする。

…その話を聞いて思ったのだが、当然のことながら、人間の脳や体を構成する分子にも、世界中のあらゆるものにも、分子・原子・電子が存在する。それらが「重ね合わせ」の状態を経て、時に観察されることで状況が確定し、物事は未来へと進んでいくワケだ。

この「重ね合わせ」の状態って、自分の頭の中でモヤモヤと考え事をしている時の感覚に近い気がする。例えば上司とうまくいかなくて悩んでいる時に、それをいざ他人に話そうとして、

という表現をするか、

という表現をするかで、問題の形が言語化したその瞬間に定まってしまうような気がする。

最初に前者の言い方をした人は、「いや、俺にも至らないところもあるだろうけど」と考えても、「やっぱり上司が悪いよ、アイツがちゃんと指示できれば…」という他者批判の目線が強くなりやすいだろうし、後者の言い方をした人は、「上司もうまく指示してくれたら嬉しいんだけど、やっぱり俺の勉強不足・知識不足で足引っ張っちゃってるんだよね…」なんていう風に自責思考が強く出がちだと思う。

頭の中でモヤモヤと考えている時は「上司が悪い」「自分が至らない」が半々で混在していたのが、何かの拍子に言葉にしてしまうと、そこである程度固まってしまって、いくらそこから公平に考えようとしても、どうしてもどちらかにバイアスが偏ってしまう感じがする。書き出したり、誰かに話したりして情報が整理されるメリットも勿論あるが、そのやり方は気をつけないといけないのかな、と思ったし、その根本にあるのはもしかしたら量子の重ね合わせみたいな、不定要素があるのかな、なんて強引なこじつけをしてみたりしていた。


ところで、右脳と左脳を繋ぐ「脳梁 (のうりょう)」という部分を切除した人は、「分離脳」と呼ばれる特殊な状態になるそうだ。細かい正確な説明は省くが、超簡単に言うと、

  1. 分離脳の患者が左視野でモノを見る → 何を見たかは右脳にのみ情報が届く
  2. 「何を見ましたか?」と患者に尋ねる
  3. 言語を司るのは左脳だが、左脳は右脳が見たモノの情報が伝達されないので、「何も見えていない」「分からない」と答える

…といった症状になるそうだ。

別の実験では、左右の各脳の情報不足を補うために、「作話」をする場合もあるという。

  1. 右視野にはニワトリの足の絵を見せる → 左脳が把握する
  2. 左視野には雪が積もった小屋の絵を見せる → 右脳が把握する
  3. 「見た絵に関係するイラストが描かれたカードを両手で取ってください」と患者に指示する
  4. 患者は右手でニワトリのカードを掴む → 左脳で認識していた「ニワトリの足」の絵に関するカードを選べた
  5. 左手ではシャベルのカードを掴む → 右脳で認識していた「雪の絵」に関するカードを選べた
  6. 「なぜシャベルのカードを選んだのですか?」と患者に尋ねる → 言語優位な左脳は、右脳が雪の絵を見たこと、それに関連するシャベルのカードを選んだ理由は知り得ない
  7. しかし患者は、「シャベルで鳥小屋を掃除するためです」と答えたという

文章での説明だとちょっと分かりにくいかもしれないが、左右の脳を分断されると、2つの別々の意識が生まれるのだが、それぞれ脳がやったことに対して、後からもっともらしい理由をでっち上げて答えているというところがポイントだ。そして分離脳患者の当人はウソをついたり何か誤魔化したくてそのようなでまかせをいったワケではなく、自分の中では本当に自然とそう思ったように感じているのだという。

先に行動したことに対して、後から理由付けを捏造する。この感覚って、先日話した「子供が走り出す理由」にも通じる気がする。


人間、理屈じゃなくて感情が先行することも多いモノだ。だが、現代社会や仕事上では、まず理屈、理由や根拠が重視され、「こういう理由だから○○を始めます」「こういう問題があるので△△はやりません」といった考え方を求められることが多い。仕事じゃ仕方ないけど、この考え方ってちょっと不自然なのかなーって思ったりもした。

子供の頃は理由や目的なんか関係なく、まず走り出していた。ギターを生音で爪弾いている時は、(人様に聞かせられるような音ではないものの) 自分の手が勝手に動いて何か音を出す。このようなメロディを奏でよう~~と計画したワケじゃなくて、自分でも「何だこの押さえ方!?」って思うようなコードや運指をしたりすることがある。そういう「表出」には、理由なんかない。このように聞かせたいとか、聞く人を感動させたいとか、そんな発想は皆無である。

趣味として自分を高めていくために、理性的に学んで、コツコツと練習を積み上げて、「表現」の技術を磨いていく。コレも重要なことなんだけど、「表出」が悪かというとそうでもない。

試行錯誤や理性的な工夫が求められる「表現」を趣味の分野に取り入れつつも、とっさに「表出」するハプニングやアドリブも楽しむ。

論理的で根拠を求められやすい仕事はもっと肩の力を抜いて、皆から「表出」するワガママな波に乗って、コチラもワガママに、だらしなく仕事をやり過ごす。

そういう「力の入れ方」と「力の抜き方」だったり、「表出」を我慢しないで「表現」を磨いたり、理屈や論理的な合理性を追求しすぎないようにしたり、みたいなことを、ぼんやりと考えていた。