映画?「Broken Rage ブロークン・レイジ」を見た

2024年製作、北野武監督の映画。アマプラオリジナルになるのかな?

「とある殺し屋にまつわるストーリーを、前半はシリアスに、後半はセルフパロディで。」という、アマプラの紹介文にもなっている程度の予備知識だけで見るのが良いと思う。全体で1時間ちょっとなので、アニメ2本分、短編映画をサクッと見るつもりで見ると良いかと。

独特の美学がある武映画だとか、ヤクザモノなんだとか、小難しいことは考えず、とにかく見始めてみよう。


…どうだろう。

恐らく、

絶妙につまらない何を見させられたんだ、というのが感想になるのではないだろうか。w


近年の MCU 映画など特に、優秀な脚本家が集まり、多額の予算をかけていて、「2時間の映画、楽しかったー!」と素直にカタルシスを得られる、「良い映画」がたくさんある。「コスパ」「タイパ」といった言葉が出回るとおり、「2時間で俺を満足させてくれよ?」とお手軽に費用対効果を求める視聴者は多い。

自分だってそうだ。15分の YouTube 動画すら、シークバーをいじってオープニングを飛ばし、倍速再生にしてサッサと消費し、次々と動画を漁る毎日。色んなモノを見てるはずなのにいつまでも満足しなくて、そういえば今日一日なにを見たのかすら覚えちゃいない。


そこで今回の「ブロークン・レイジ」だ。

1時間の映画なら気軽に見てみるか」と思って観てみたのに、気が付けば1時間以上「何が面白かったんだコレ…」と考えていた。

日本のお笑い界でも、世界の映画界でも、天才・奇才と言われるビートたけし・北野武のことだから、きっと何らか計算したうえで作ったのだろうと思う。だが、何をどう計算したらこんな「絶妙につまらない映画」を作ることになるのだろうか?

脚本段階、撮影段階、編集段階の、どこでどんな「計算」があったかは分からない。一言で感想を言うなら「大して面白くなかった」となるワケだが、結果的にこの映画に関して1時間以上、頭がいっぱいになっている。


前半のシリアスパートで見る各シーンはどれも無駄がなく、1コマを切り出して画像で見せられても「あのシーンだ」と分かるような、印象的な画作りがなされている。これにより、後半のセルフパロディパートに入った時に「前半ではこういう流れだったよね」というのを瞬時に思い出せるようになっている。一度しか見せられていない映像がこれほどまでに印象的に残り、「パロディ」が成立するという点では流石だなと感じた。

セルフパロディのパートは、頻繁にたけしがズッコけるなどの「ベタな小笑い」が主だが、前後の脈絡なく覆面マスクを被っていたりするシュールな場面も多い。「よく見かけるテレビのコント番組」みたいな展開だが、爆笑をかっさらうほどの奇抜さはない。かと思えば、視聴者コメントが流れるメタ視点のネタも混ざっていたりして、「そう来たか」と思うシーンも中にはある。

そんなワケで、「この映画はなんであるか」と問われれば「1作品内で『パロディ』を実現してみせた実験的映画」などと言語化できるのだが、「この映画はなんだったのか」については答えが出ていない。

「同じシーンの別カット・別バージョンを見せる」というアイデアそのものは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「テネット」など、タイムトラベル・タイムリープモノの映画で既に実現されており、斬新なアイデアというほどでもない。

ではなぜあえてそれをやろうと思ったか。そして、やった結果の後半のコメディ部分が、なぜそれほど面白くないのか。前半をフリに効かせ切るワケでもなく、後半でハチャメチャに壊すほどでもない。でも、一つも良いところがなかったかというとそうではない。「世界のたけしなんだからさぞ面白い映画を作ってくれることだろう」という期待を、半分は満たしてくれるが、それ以上は満たしてくれない、何らかの意図で「小出しにされた」感を抱くような作りになっていた。「たけしも歳を取ったから、つまらなくなったのだ」というような、そう単純な話ではないように思う。


お手軽にカタルシスを得ることができず、大変モヤモヤしている。たった1時間とはいえ、それに見合うだけの満足感を取り戻したいと感じている。よく分かんなかったので、「解かりたい」と思っている。

作者は何を伝えたかったのか。監督は何を言わんとしているのか。「実験的作品なんだからそんなもんはない」で本当におしまいなのか?隠されたテーマや見逃した点はないだろうか?すんごくモヤモヤしている。

「これまで細部にこだわってきた武の新作なんだから、あらゆる面で完璧なモノが出てくるだろう」と思いきや、そんな分かりやすい作品は出てこなかった。いくら「実験的」とはいえ、自分のこれまでの評判を落とすかもしれない、大赤字を出すかもしれない作品を、そう簡単には作れないだろう。……とは思うのだが、もしかしたらマジで「思い付いたアイデアを映像化してみたかっただけ」で、それ以上の意味とか目的とか、視聴者への狙いとかそんなモノはなかったのかもしれない。「お前らがどう思うかなんて知るか」と言わんばかりのシュールさ。なんなら「俺にだって分かんねえよコノヤロー」とすら言われるんじゃないかと思うくらいには、既存の概念が通用しなかった。


そんなモヤモヤと同時に、なんというか、適切な表現かは分からないけど、「『大して面白くもないモノ』を世の中に公開してもいいんだ」みたいな、謎の安堵感みたいなモノを、この映画から感じている。

必ずしも観客に分かりやすい感想を抱かせなくてもいい。相手に伝わるかどうかとか、考えすぎなくてもいい。やりたかったら、やってみればいい。上手く、完璧になんて出来なくたっていい。そんなことを漠然と感じた。

「レジェンド」「巨匠」と言われるほどの人が、その期待やプレッシャーを振り払って、自己の純粋な欲求に忠実になった結果がコレであり、それをたまたま「映画」というパッケージに当てはめたのであって、それ以上の何かなどではないのかもしれない。カッコよく言えば「等身大の生き様」とか言えるかもしれないが、そんな大層なモンじゃなくても別にいいだろ、ただの生物 (なまもの) だよ、みたいな、その程度の話だったのかもしれない。