ファンをこじらせてアンチ化しないための作法を考える

最近急激に VTuber 界隈を見るようになって、考えてたことを書きます。

目次

VTuber を見るようになった

2021年頃からテレビのない生活を始め、YouTube をよく見るようになった。作業しながら楽しめたらいいなと思って、画面を注視する必要があるコンテンツは避けがちで、ラジオ的に視聴できるモノを好んでいる。中でも「ゆっくり解説」系は、声色に個性が出にくいことで逆に聞きやすく感じて、あちこちのゆっくり系チャンネルを長らく見てきた。

それでココ2・3週間くらいだろうか。何かの拍子にホロメン (ホロライブ所属の VTuber たち) の切り抜き動画を見て「この人たち面白いな!?」となり、切り抜き動画や Wiki で過去の活動を履修し、直近のアーカイブを倍速再生して追っかけるなどしだしている。VTuber も、極端に言ってしまえば外見など所詮は絵であり、ゲーム配信系はあまり見ないので映像情報はほとんど必要ない。雑談配信となればラジオ的に聞き流せるので、自分の視聴スタイルを壊さずに楽しめるワケだ。

とはいえ、技術的にはモーションキャプチャどうしてるんだろうとかカメラどうなってるんだろうとか気になるし、Twitter に段々と流れてくるようになったファンアートを見るにつけ、「キャラクターを大事にしているファンはあたたかくて良いものだな」などと思っている。2次元のガワにガチ恋するようなことはないけど、各々の活動は紆余曲折あり、裏側には等身大の一人の人間が葛藤する様が垣間見れて、親目線的に応援したくなるところがある。……なるほど、コレが「推し活」ってことなのか……と気付いた次第である。

Vshojo 騒動きっかけで感じた「事務所」の存在

ちょうど個々の VTuber の名前を認識しつつあった時に、Kson という VTuber を知った。それもちょうど、彼女が所属している「Vshojo」という事務所が、報酬の未払いが続いていることが発覚した時だった。Kson さんが脱退して数日すると事務所は閉鎖し、Kson さんは「個人勢」となった。

そこでようやく、「事務所所属の VTuber」と「個人勢 VTuber」とで、生きる世界がだいぶ違うのだなと思うようになった。

また、自分はホロライブメンバーを中心に VTuber を見始めたので、「ホロライブという箱」の括りで過去の活動を確認したりしていた。メンバーたちも「自分は◯期生で~」といった話は頻繁に出すし、ReGLOSS など「事務所主導のユニット」も存在することから、誰が何期生で、いつ頃デビューで、先輩後輩関係はどうで…といった見方が強まった。

ホロライブ関連の情報収集をしているうちに、5ch の「ニュース速報 (杉浦綾乃) 板」、通称「綾速」の存在を知る。板の誕生の経緯などが全く分からないしもう知る気もないのだが、素人目にざっくり見ると「アンチスレ」みたいな感じ。誰々の配信時間がどうだの、同時接続数が勝ってる負けてるだの、誰々と誰々が裏で派閥争いをしているだの、運営の企画がどうだのと、妄想や噂レベルの話を拡大解釈して、何かを貶し合っているなぜイチ視聴者が数字を他者と比較して気にしているのか分からないし、誰を応援しているのか誰を何故批判しているのか、その活動に24時間費やしてスレに書き込みを続けるモチベーションはどこにあるのか、全く分からなくて謎だ。

ただ、いずれにせよ、プロモーションの仕方や売上など、事務所の思惑というか、ビジネス視点が入ってくると、コンテンツ自体を純粋に楽しめなくなりそうだな、というところを考え始めるようになった。

タレント個人の思いと、事務所のビジネス戦略

こういう話は今に始まったことではない。

音楽業界でいえば、歌手個人としての思想と、作詞家が書く詞の思想は必ずしも一致しないし、事務所としての売り出し方も、アーティストの意思に 100% 沿うものではないだろう。「本当はアイドル路線なんて嫌だった」みたいなことを後々暴露するタレントも時々いたりする。

映画も同様に複雑だ。役者が作品やキャラクターのことを考えて、演じ方を変えようと提案したりアドリブをしてみたりする。でも脚本家や監督から NG が出て台本どおりに演じる場合もあるだろうし、現場では役者のアドリブが気に入られても、制作会社の意向でカットを命じられる場合もあったりするらしい。1作品内の出来だけでなく、シリーズ化を見越した辻褄合わせやスポンサー関連の都合だったりと、色々な要素が複雑に絡み合う。

アーティスト個人としてはきっと、自分の思いを芸術として昇華して表現したいと思うことだろう。「私はこういう人間だ」「私はこう思うのだ」ということを作品に込めたいと思ったり、「ファンが喜んでくれるような仕掛けを盛り込みたい」と考えていることだろう。

しかし、そうした意図と、「それが売上に繋がりそうか」「スポンサーや株主の意向に沿うか」という話は全く異なる。当然会社としては慈善事業ではないので、売上に繋がらない、赤字確定と見えるモノに出資はできないだろう。

音楽レーベルなり事務所なり制作会社なりがあって、初めてタレントやアーティストは活動できる。資金調達やプロモーション活動を会社に任せられる代わりに、売上が出せるようにある程度はビジネス的な言うことも聞いてくれよ、という関係なワケだ。

仕組みとしては当然だと思うものの、エンドユーザからすると「タレントやアーティストが本心からやりたくてやっていること・100% 自分が作りたくて作ったモノ」が出てきているはずだと捉えてしまう。そのアーティストが発信する主義主張に賛同していたり、その一貫性を好んでいたりするワケで、客目線ではそうであって欲しいと望んでいるワケだ。…まぁ、そうも言えないことが多いが。

角松敏生の場合

個人的に知っているアーティストの、観測範囲での話を書いてみる。

角松敏生は、シンガーソングライターとして自らの体験を詞に盛り込み、著名なスタジオミュージシャンを集めて上質な楽曲を作り続けているミュージシャンだと思う。そんな彼も、デビュー当時は経験も足りず、事務所の意向で売り出してもらった部分がある。

確かアーティスト本「角松敏生 The 35th Anniversary Special Edition」で語っていたと思うが、「Summer Time Romance From Kiki」など初期のコンピレーションアルバムについて、「事務所が勝手に作ったモノであって、自分には思い入れがないんです」といったことを素直に話していたりする。

このことは、作者である角松敏生氏に寄り添って考えれば、「自分の意思とは関係なく作られたアルバム」であって別に納得していないし、楽曲の完成度についても現在は自分で納得できていないから、「Sea Breeze 2016」のようにリメイクアルバムを作ったりして追求を続けている、と捉えられる。

一方で、「Summer Time Romance From Kiki」はカマサミ・コングが DJ を務めており、夏や海を感じさせるコンセプトアルバムとしては決して悪くない。「Office Lady」前後の繋ぎなど、働く OL へのエールがより込められている、とも捉えられる。このアルバムが気に入って聴いていた人からすると、一見このアルバムの作者に見える角松敏生本人に「自分は関わってないんです」なんて言われると、ちょっと萎えてしまうところもある。

もちろん、各楽曲は全て角松敏生の作詞・作曲であり、歌詞の内容に本心が込められていないだとか、事務所の言いなりで作らされたとか、そういうワケではないのだが、楽曲の繋ぎ方だったり、全体を一つのアルバムとして構成するにあたって、角松本人の意思が特段込められていないということなのだが、こういうアルバム制作の経緯について「知れて良かった」と思う人もいれば「あまり知りたくなかった」と思う人もいるかもしれない、そんな微妙なラインの発言かもなぁ、と感じるワケである。

個人的には、角松敏生という人物がどんなことを考えて音楽を追求しているのか、本人の思想も細かく知ったうえで聴きたいと思っているので、インタビュー等で語られる発言は積極的に見ていこうと思っているので、この発言に関しては「そうだったんだ~」くらいにとどまっており、楽曲単位で見ても、アルバム全体として見ても、別に作品への評価は変わっていない。

山下達郎の場合

一方で、本人の発言を聞いてゲンナリしてしまった例もある。自分の場合は山下達郎だ。

「Artisan」収録の「アトムの子」には元気をもらったし、学生時代に初めて聴いた「スプリンクラー」の歌詞には衝撃を受けた。良いと思った楽曲を挙げようとしたら優に50曲はスラスラと挙げられるであろう。

そんな山下達郎は、自身が MC を務めるサンデー・ソングブックというラジオ番組も、長年精力的に続けている。紹介する楽曲に関してはオンエア用に音質調整しているというし、自身の楽曲の制作裏話を披露することも多い。山下達郎の考え方をうかがい知ることができて、ファンとしてよく聴いていた。

だが、2023年のラジオ放送で、性加害問題が取り沙汰されたジャニー喜多川氏について言及した際、「数々の才能あるタレントさんを輩出したジャニーさんの功績に対する尊敬の念は、今も変わっていません」といった発言をされていて、自分は一気に萎えてしまった。

私が一個人、一ミュージシャンとしてジャニーさんへのご恩を忘れないことや、それからジャニーさんのプロデューサーとしての才能を認めることと、社会的、倫理的な意味での性加害を容認することとは全くの別問題だと考えております

作品に罪はありませんし、タレントさんたちも同様です

彼ら(ジャニーズタレント)の才能を引き出し、よい楽曲をともにつくることこそが私の本分だと思ってやってまいりました。このような私の姿勢を、忖度(そんたく)あるいは長いものに巻かれているとそのように解釈されるのであればそれでもかまいません。きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう

山下達郎としては「作品に罪はない」という考えが根底にあり、ジャニー氏が良い作品を作ることに尽力していた点については間違いではないから、その点においては尊敬している、ということなのだろう。山下達郎は CM ソングを多く手掛けていたり、タイアップで売上を担保して生き延びてきた面もあるので、プロデューサーとして協力してもらっていたジャニー氏に恩があったんです、という経緯は推測できる。だからといって、もし性加害があったとすれば、それを容認などしてはいない、という話も、それも分かる。

だが、言葉を巧みに操り人々の心を掴んできた、確かな才能を持っているはずの山下達郎が、なぜそれをそういう言い回しで表現・発信してしまったのか?、というところが、いちファンとしてはガッカリを通り越して人として失望してしまったところなのである。世間的にも大炎上していた真っ只中の時期の発言なのだから、本心をストレートに言う必要などなく、「尊敬していた人物なだけに、性加害問題が事実なら残念だと思うばかりです。事実確認が適切に進んでくれることを願っています」くらいで終わらせればよかったのに、なぜ「長いものに巻かれている」と解釈されかねないスピーチを長々としたのだろうか。

山下達郎が前々から「自分に付いてくるコアなファンだけが、分かる人だけが分かればいい」といったスタンスなのは伺い知れたし、山下達郎のことをファンとしてもっと知りたい、という思いもあってラジオをよく聴いていたが、この一件で「コイツマジで何考えてんだろう」と幻滅してしまい、文字どおり私にとっては「山下達郎の音楽は不要」になってしまった。作品に罪はないはずなのに、聴こえてくるサウンドは今も変わらず上質なのに、「でも性犯罪者を養護するようなこと言ってた生意気な奴が作った曲だからな……」というフィルターが拭えず、もう山下達郎の曲を聴けなくなってしまった。

コレはとても残念なことである。かつて好きだった楽曲なのに、今はもう生理的嫌悪感が先行するようになってしまった。素直に楽しめなくなってしまった。かつて「アトムの子」を聴いて得られていた元気は何だったのだろうか。全てが嘘臭く聞こえるようになってしまった今、「作品に罪はない」とは思えず、罪な作品だと思う。「嫌なら聞くな」と言われたことだし、嫌だからもう聞かない。良質で自分を高めてくれるはずだった作品・コンテンツが、権力者に忖度した陳腐なモノに感じてしまう。

こんな気持ちになるくらいなら、作品外で語られる山下達郎個人の意見なんて知りたくなかったな、と思うばかりだ。

「作品至上主義」と「作者至上主義」、作品を深く味わうにはどちらの視点が良いのか

作者が誰かとか、制作の背景がどうだとか、そういったことを考慮せずに作品そのものの出来を重視する、「作品至上主義」という言葉がある。「作品に罪はない」と同じスタンスだ。

これに対する言葉というのは一つに定まっていないが、ココでは「作者至上主義」という言葉を当てはめてみようと思う。すなわち、

を、ココではまとめて「作者至上主義」と呼ぶことにする。

ホロライブ所属の VTuber「儒烏風亭らでん」ちゃんが最近配信で解説してくれていたので、ココでは「ゴッホ」の絵画を例に取ってみる。

美術に関する知識がない自分としては、ゴッホの作品を何の説明もなしにただ見させられても、正直何も感じない。「星月夜」を見ても、どこの場所を描いたのか分からないし、何か落ち着きのない油絵の筆使いで、別に写実的でもないし、何が良いんだろう、何なんだろう、といった感想で終わってしまう。

予備知識もなく、何の説明もなしに作品を見る、というのは、作者の考えや制作経緯を無視して作品そのものに集中する「作品至上主義」的な見方に近いモノだと思う。しかし、あまりにも予備知識がなさ過ぎると、何の良さも感じられずに終わってしまうのだ。

そこで今度はゴッホの生涯を調べてみる。

…と、大雑把にこんな感じで、ゴッホの生涯や周辺のことを知ることで、作品に対する解釈や感想が大きく増える。そうすると、「コレはゴッホの作品だ」と知らされずに初めて見た作品であっても、「コレは晩年のゴッホの作風に近いな」だとか「色の対比で植物が強調されているな」だとかいうように、作品から受け取れるメッセージが豊富になり、より楽しめるようになってくるのだ。

でもコレは、ゴッホという作者が生まれた時代や、影響を受けた事柄、制作経緯などの知識が評価のベースにあるワケで、「作者至上主義」的な見方とも言えるのではないだろうか。作品そのものに注意を向けていないのではないか、どちらかといえば「ゴッホという情報」を食べているに過ぎないのでは、という気もしてきてしまう。

しかしやっぱり、何も知らないと、何かと比較して良し悪しを感じたりもできないし、そもそも存在を認知することもできなかったりする。音楽に詳しくない人が「ベース」の存在や価値を軽視してしまうようなモノに近い気がする。

少々極端かもしれないが、このような関係で、作品を鑑賞する側の重視するモノに対して、「知っているから or 知らないから」「楽しい or 楽しくない」という評価・感想が変わってきそうだな、と思うようになった。

事務所による「キャラクター像プロデュース」の割合

ココまでのおさらい。自分の場合、

…と、こんな感じで、知ることで深みが増したこともあれば、知ってしまったことで損した気分になったこともあった。


ココからようやく VTuber の話に戻る。

ホロライブ所属メンバーに「星街すいせい」という VTuber がいる。彼女は「個人勢」として活動をスタートし、その後ホロライブに所属している。歌唱力が高く、武道館でライブをするほどの実力者だ。歯に衣着せぬ物言いは、時にプチ炎上したこともあったようだが、彼女の個性でもあり、プライドの高さ、高い心ざしの表れとも見て取れる。

2021年発表の「Stellar Stellar」という楽曲には、「僕がずっとなりたかったのは待ってるシンデレラじゃないさ 迎えに行く王子様だ」という歌詞が出てくる。「受け身なヒロインではなく、皆を救うヒーローになりたい」という意思が表現されているのであろう。作詞クレジットは「星街すいせい」本人だ。

続いて2024年発表の「ビビデバ」は、MV も含めて、「シンデレラ」をモチーフにしながらそれを打ち破り、「自分の人生は自分で掴み取る・主体的に活動するのだ」という意思が表れているように感じる。作詞はツミキ氏。

「星街すいせい」個人にフォーカスを当てて経歴を追い、純粋に「彼女が自身の思いを歌っているはずだ」と解釈すれば、これら作品群は彼女の思想・心情と一貫性があるように見え、感情移入もしやすく、素直に彼女の活躍を応援したくなる。


一方、「ホロライブ」は事務所だ。運営している株式会社カバーは東証グロース市場に上場している。株主への説明のしやすさなどを考慮して、グッズの売上だったりユニットを作る戦略だったり、ビジネス的な視点は必ず入ってくることだろう。事務所として、所属メンバーへの要請・指導事項がゼロなはずがない。言ってしまえば、完全自由に・個人の意思 100% で活動できているホロメンなど存在しないワケだ。

ココからは完全に妄想で、2つのパターンを想像してみる。わざと極端な例をでっち上げたものであり、本人や事務所を貶すような意図は一切ありません。僕は最近推しになったものの、すでに結構な「星詠み」です。w

前者は、1980年代のアイドルの裏話なんかでよく聞くような、「事務所にキャラ付けされて無理やり売り出された」系の想像。後者は、前述の彼女の経歴や作品から素直に想像できる「ありのままの彼女」が、ビジネス的な影響を一切受けずに自由に活動できているとする想像だ。

まぁ実際のところは「半々」なのだろう。事務所がこの仕事やってくださいと要請することも勿論あるだろうけど、本人がやりたいとお願いしたこともそれなりに聞き入れてもらえているのだろう。穏便に事が進んだこともあれば、実は裏で事務所とバチバチにやり合ったこともあることだろう。そこら辺の事実は分からない、想像することしかできない。

「ビジネス」が垣間見えないように、推しのことを知り過ぎない

ココで再確認したいのは、僕は「星街すいせい」を好きになったのであって、「ホロライブという事務所」を好きになったワケではない、ということだ。星街すいせいがどんな事務所にいるか、誰にスポンサードされているかは関係なく、彼女の名義において発表される配信や楽曲が楽しいと感じたから「推し」になったのだ。

もっと言えば、僕は「VTuber である星街すいせい」というキャラクターを好きになっているに過ぎず中の人の私生活や本心まで含めて表も裏も全部好きになると決めたワケではない、というところに線引きをしておきたい。

できることなら、タレント・アーティストには裏表などなくて、ファンは表も裏も全部ひっくるめて好きになりたいと思っている。だが、相手も人間なので、自分の好みとは合わない一面を持っている場合も大いに有り得ることだろう。もしくは「事務所の言いなりでやらされている」なんてことを知ってしまったら興醒めしてしまうかもしれない。

その人の「人となり」が好きになったのであれば、所属事務所だったり、関わっている企業だったり、といったビジネス面を知ろうとしないことが、ファンを続けるための秘訣かもしれないな、と思った次第だ。

特に Twitter のような SNS は、その人の「素の発言」が見えやすい。その中には「仕事として嫌々やらされている」「自分の性に合わないことで無理している」といった発言も、時々見受けられてしまう。コレは「ビジネス面」が透けて見えているから、その人に感情移入しにくくなってしまう一因になる。キャラクターを自身で演じきれていない「素の発言」を、ファンとして知らないように過ごすことも大事かもしれない。好きなタレントの SNS こそ、あえてフォローしないでおくことも、時には有効かもしれない。大抵の場合、本音は残酷だ

どうしても好きになったタレントやアーティストの、細かなことまで知りたい、本当の気持ちを知りたい、という欲求は芽生えてしまうが、必死になって知ろうとしないことだ。ミステリアスな部分を残して、ファンタジーとして楽しむ、くらいに思っておくことで、その人を長く好きでいられるだろうし、変に落ち込んだり幻滅したりして、自分の「推し活」をつまらないものにする必要もない。事実がどうあれ、ネット上にどんな情報が出ているにせよ、「推し活」を通して自分自身の人生がどれだけ楽しくできているかというところに注意を向けて、あまり知り過ぎないままにしておくことが大事なのかな、と思った。

最後に:推しを書き出しておく

急激に色んな VTuber を知って、活動の経緯とかを勢いよく調べていく中で、なんか興醒めしちゃうかも、というラインスレスレのところまで行きそうだったので、今回こうして思考を整理した。今のところ何か幻滅して嫌いになるような VTuber はいないので、現時点でお気に入りになった VTuber を挙げておく。順不同。

ワシもいいオッサンなので、なんというか、皆に幸せになってほしい、って思いで眺めてる。ファンサービスとか無理しなくていいから、やりたいことをやっている存在であってほしいな、って思っている。心身ともに健康で、楽しく過ごしてね。