AI が何でも出してくれる時代に人間は何を楽しめばいいのか
2025年は生成 AI の進歩が特に目覚ましく、2026年に入ったこの3週間でも色々なことが起きています。3・4年くらい前だったら「そういう便利ツールがあったら夢のようだね、あと10年くらいしたら有償のものが実用レベルになるかもね~」なんて思っていたものが、「エンジニアとしての実務経験がない学生の僕でも AI コーディングで作れちゃいました!」ぐらいのことが起きている感覚。
今回は、「もはや AI が何でもできちゃうんじゃね?」となってきたこれからの時代に、その中で人間はわざわざ苦労して何をしていくことになるのか、AI が作ってくれたものを人間はどのように受け取って行くことになるのか、想像してみます。
僕について
どういう立場・どういう知識量の人間が喋ってるかを改めて書いておこうと思います。
- 2013年新卒入社のプログラマ、エンジニア
- IT 知識はそれなりに持っていた…と思うが、2025年から体調崩して休職していたので、2025年の目まぐるしい発展には業務としては触れておらず、はてブのホッテントリを斜め読みするくらい。そうとうなニワカ知識で喋るので、既に古いこと言ってたり、間違ってたらゴメンなさい
- 元々、「世界中の問題が勝手に解決して、自分のような SE の仕事がなくなればいいのに」と思って仕事してきた。「AI に自分の仕事を奪われる」みたいなことは危惧してないし、自分を守りたいがためのポジショントークのつもりもない
- 小さい頃からパソコン・インターネットが好きだった
- 映画製作、VFX、CG、映像編集にも興味がある
- エレキギターを趣味で弾いてるので、エフェクター、音楽機材、音楽製作、DAW などにも興味がある
「ホームページ」というものの存在を知ったのが1997年頃で、作り始めたのは1999年頃、このサイトは2002年開設という感じです。(最初は Java で) プログラミングをちゃんと始めるようになったのは入社のタイミングからですが、以降は Node.js、Python あたりでアプリを作らされ、Docker・Kubernetes を組み合わせて AWS・OCI にデプロイする、みたいな感じで、ウェブ寄りのフルスタックエンジニアとして仕事をしてきました。
AI 批判でもないし、AI 使うなとも思ってないです。ただ、エンジニアとしてそれなりにやってきた自分でももはや何がなんだか分からなくなっているこの現状に、困惑しています。
AI コーディング
2023年くらいに会社で GitHub Copilot を導入させてもらって、VSCode 上に「次こんなコード書きたいんじゃね?」というサジェストが出てきて「おー、ほぼそれです」ってな感じで入力補完が効いてくれるのを体験したあたりで、「前後の文脈をもうちょっと読んでくれるようになったらこれもう完璧だな~」ぐらいに思ってた。
2025年、個人の開発で Qodo、Traycer といった AI コーディングツールが無料で使えるのを知って試してみて、もうそれが十分うまく行ってることを実感しました。まともな README.md すら用意していない Git プロジェクトを指定して「次こんな機能を作りたい」とか「ココを重点的にリファクタしたい」と伝えると、詳細な実行計画を提案してくれて、「じゃあそれとこれをやってほしいです」とお願いするだけ。数分待っていれば画面上で次々とコードが書き込まれていって、「終わりました、必要なら Lint、テストもしますよ」と案内してくれる。コードの書き味に好みが出るかもしれないけど、「動かないコード」はほとんど吐かなくなっていたし、「とにかく動いている成果物が必要なのだ」という話であれば、これでプロトタイプ~初期バージョンとしては十分成り立ちそうな精度だった。
こういうのを Agentic Coding と呼ぶらしい。AI エージェントが自律的に作業してくれて、人間は「発注者・指示者」に回る、ということみたい。
人間の指示の仕方は依然として重要で、僕は恐らく、他の人よりも事細かに要件・仕様を言語化した状態で AI にぶつけるので、最初からエラーが少ない。この点は、僕がエンジニアとして「設計書にせよコードにせよ、君が提出するものは全ての行・文字列に対して、なぜそう書いたのかを説明できる必要がある」と教え込まれてきた癖が生きていると思う。フレームワークやライブラリの選定にしても、どういう評価軸でメリデメを比較したか、そう判断するに至るまでに閲覧した文献はどれか、といったことを書き出しておく癖が出来ているので、AI にとっては「そういうコンテキストね、了解」となりやすいのかなと思う。
しかしこうした技能も、最近は「Agent Skills」とかいって、AI に対して使用するツールだとか、ベストプラクティスだとか、会社やプロジェクトの倫理観やデザインシステムまでをまとめた Markdown ドキュメントを読ませることで、AI エージェントの振る舞いをかなり「自分好み」に出来る仕組みが登場してきている。要は企業理念から要件定義書・共通仕様書くらいまではちゃんと文書化しましょうね、そしたら AI もよく理解して仕事できるようになるよ、って話で、別に今までの (特にウォーターフォール的な) システム開発でもやってきたことの延長ではある。
(僕が個人的にトラウマがあって嫌っている) アジャイル・スクラム開発の推進派の人達は、数年前まで「ドキュメント書くのだるい」「コードがドキュメントです!(キリッ」みたいなこと言ってたから、時代の流れ変わったな~という感はあるけど、Agent Skills として「コンテキスト (文脈) を説明するドキュメント」が必要になったんです、と言われたら、今度は「じゃあ skills.sh に掲載されてる良い感じのテンプレを持ってきて、あとは ChatGPT と相談しながら自社風に加筆修正してもらうか」ってなこともまぁまぁ出来るワケで、やっぱり AI がいるからなんとかなるんだな、と。
今のところ、AI コーディングの主流ツールは Anthropic 社の Claude Code なのかな?OpenAI 社の Codex とかも聞くけど、有料なモノに課金する気はないので使ったことない。ココ、21世紀初頭までの「なんでも無料で共有しようぜ!」の癖が尾を引いていて僕の悪いところです。未だに Flickr が有料プラン前提になった2005年頃の愚痴を言っている。絶対サブスク課金しないマン。
ただ、この「サブスク課金」という存在が、いま僕が AI に対して懸念している大きなポイントではある。
これまでも有償のツールは存在してきた。シェアウェア、ライセンスキーが必要な買い切りパッケージ。財力にモノを言わせられる人だけがその便利さを享受できる、という話は今に限ったことではない。でもそんな中で、有償ソフトに迫るフリーソフトが出てくるのが楽しかった。
- Macromedia Flash がなくても ParaFla で Flash アニメ作ったり…
- Photoshop がなくても GIMP で代用したり…
- Premiere Pro がなくても Windows ムービーメーカーや AviUtl で頑張ったり…
- ホームページビルダーのような GUI がなくても ez-HTML で手打ちすれば良いんです!とか…
職業エンジニアになってからも、「本当は有償の JetBrains (IntelliJ IDEA) が好きなんだけど、稟議が下りないから無料の Eclipse を仕方なく使ってる人」とか、Atom エディタ出始め・VSCode 登場以前くらいの時期に「Sublime Text をわざわざ買ってる俺って最先端!」みたいにドヤってる人とか、なんか色々いた気はする。
業務によっては SAP や HULFT のようなプロプライエタリ・ソフトウェアをガッツリ使ってるところもいっぱいあって、そうなると「個人で自宅でも練習用環境を持つか」みたいなことは難しくて、それが使える職場で残業しまくるしかないとか、まぁありましたよね (今もあるのかな)。
一般ユーザ目線でも、「買い切りの有償ソフト」が段々と「サブスク」に変わっていった。Microsoft 365 (旧 Office 365)、Adobe CC は分かりやすい例だろう。YouTube Premium、Netflix、Spotify なんかもそうだ。
「サブスクの問題点」みたいな話で語り尽くされたことではあるが、こうしたモノってずっと借りてるだけで、いつまでも自分のモノにできないのがもどかしい。今月課金をやめたら、来月から手元に残るモノは何もないのだ。
コーディングをしてくれる AI エージェントについても同様だ。趣味で AI コーディングをやっている範疇については全然構わないし来にしてない。僕自身のキャリアの進退についてもどうでもいい。ただ、業界全体として、今後どうなっていくんだろう、ということが、少しばかり気になっている。
月100ドルの Claude Max プランに課金して、「エミュレータのような複雑なモノを自動生成してくれた!」とか「アプリを自動開発させてます!」とか、そうやって遊ぶのは自由だし、そうしたモノに投資できる先見の明も、自分にはないからスゴイなと思う。けど、この人達は「Anthropic 社に毎月課金しないと何も作れない人」になってしまう可能性も高い。AI サービスを提供する会社側が、自分の手足であり、脳の一部であり、それを動かす実際の権限を持っている張本人である、という感覚があって、じゃあ「こうやって動いて欲しい」と大雑把なことしか言えない自分という存在に、何の価値があるんだろう、みたいな感覚になってきてしまうのだ。
んーまぁ、今までだって、「イラレとフォトショがない環境では仕事できないです」というデザイナーは別に珍しくないだろうし、「Eclipse のビルド機能を使ってたのでソフトがなかったらコンパイルとか出来ません」っていうエンジニアも多かったと思う。「Claude が使えない PC だけ与えられても、私は何も作れません」という人が出てきたって、考え方としては同列としてみなせるのかな、と半分くらいは思う。
でも一方で、受託型エンジニアとして特定の環境やツールに依存せず (依存できないことを強いられて) やってきた人間としては、こんなに制約の多い働き方しか出来ないとなったら、そういう人のエンジニアとしての価値はどうやって測ったら良いんだろう?と思う。「AI にタイピングを代行させていただけでなく、設計思想やトラブルシュートまで任せていて、たまたま AI が優秀だったから上手くやっているように見えていたけど、実際のところコイツ自身の頭の中には、ロクなノウハウがないぞ?」という時代になっていったら、企業はどういう人材をどういう基準で採用するんだろうか。
もうそれだけどこもかしこも AI 活用が前提になったら、課金が必要とか、「自分の頭で考えてない」とか、「AI がない環境でも作業できるかどうか」とか、そういう懸念も要らなくなるのかなぁ?「電気が付かなかったら PC が使えなくて何も出来ません!」「インターネット回線がなかったら何も送受信できません!」っていうのと同じで、「AI が動かなかったら休むしかない」というのが普通な時代がすぐ来るのかな。
- そういえば、Adobe のライセンス認証回りで障害が起きてソフトが開けなかったり、Cloudflare が落ちたせいで様々なサイトにアクセスできなかったり、といった障害が、最近ちょこちょこありましたね
- GitHub が落ちてるからもうコーディングが進まない、Slack が落ちてるからもう会話できない、という話も、冗談半分で時々あったことだし…w
AI サービスも複数をうまく冗長利用したり、ローカル AI をフォールバックとして用意しておいたりして、「AI が全くない環境」など存在しないように対処するようになるんだろうか。
AI 生成の音楽
「シンセサイザー、サンプラーで色んな音を手軽に鳴らせる」ことが画期的だった時代から、DTM が普及して、自宅で録音し、タイミング修正やピッチ修正をちょこちょこっとやる、マスタリング (ノーマライズ) は機械に全体を分析させて自動修正させる、みたいなことは既に行われてきた。
これらは、人間がやりたいことを省力化するための発展だったと思う。「あの楽器の音を出したいけど実物は買えないのでサンプラーで代用」だったり、「自分の演奏技術が届いていないけど、本当に作りたいのはこういう音だから、ココはやむなく機械に補正してもらおう」だったり。
一方、最近の Suno なんかは、「◯◯さん風のフレーズを取り入れた、◯◯ジャンルっぽい曲を作って」みたいなプロンプトで3~5分程度の楽曲がすぐ出来上がったりする。
こうなってくると、何をどうして作りたいのか、何が良いと感じるのか、といった人間の感性による部分も、機械が肩代わりしているような感覚がある。「◯◯的な音楽を作って」と AI に指示して出てきた楽曲は、どのくらい人間の狙いどおりに作られたのか。どのくらい「AI がたまたま提案してきたものが悪くなかったので偶然採用した」ものなのかが、なかなか分かりにくい。
これまでも「厳密には予定になかった音でありミステイクだったけど、面白かったので採用した」とか「ミュージシャンによるアドリブのフィルインが唯一無二の作品に仕上げてくれた」とか、そういった話はあったけど、AI が楽曲生成できるこの時代というのは、「AI の裁量に委ねた偶然の産物」の比重が大きすぎるような気がする。
AI が作ったから感動できない、人の手で苦労して作られたから感動できる、という二元論にしたいワケじゃない。AI が生成した楽曲が思いのほか心地良かったり、既に亡くなっているミュージシャンの特徴をうまく再現した「新曲」が出来上がっていたりすると、感慨にふけったりもする。AI 生成の結果が「割と良い」だけに、「でも意図が希薄な成果物」に心を揺さぶられていいのだろうか、こんな作り物に感動してる自分は何なんだろうか、という気分になるのだ。
AI サジェストで育った人間の倫理観
人間は「自由意志」を持って生きていると思っている。SNS には見たくないコンテンツが挟まるため、ミュートなどして工夫して、見てて楽しいコンテンツが流れてくるように「自分の意思で」調整している。
…が、結局は AI が最適化した「おすすめコンテンツ」を優先的に提案されており、「たまたま新しい界隈に出会った」ような気がするけど、全ては AI の手の内で転がされているだけかもしれない。
サービス開始当初の光景もリアルタイムに見てきたはずのいい歳した大人でも、現在こうして Twitter や YouTube のアルゴリズムに踊らされて時間を消費しているというのに、これからの若い世代は、コレが「自然の摂理の一部」かのように享受して育っていくことになる。ダグラス・アダムスの法則に通じるモノなのだろう。
- 生まれたときに世の中にあったものは、普通で当たり前で、世界を動かす自然の一部である
- 15歳から35歳の間に発明されたものは、刺激的で革命的と感じ、その分野でキャリアを積むこともできる
- 35歳を過ぎてから登場してきたものは、自然の秩序に反するものである
生成 AI の万能さは、今年2026年に35歳を迎えた僕にとっては、「これまでの常識に『反する』勢いの不自然なもの」であるから、コレだけモヤモヤと葛藤している。しかし、例えば2020年生まれの我が子なんかは、きっともうコレが当たり前になっていくのだろう。
彼らにとって、「生まれ育ってからずっと AI が提示してきてくれたモノ」に多く触れて道徳観が形成されていくだろうから、それって凄く AI に支配された思考になってしまうんじゃないかと思う。
AI がいう「善い行い」が正しく正義である、と教わっている状態は、「新聞やテレビの偏向報道に騙されてきた世代」ともまたちょっと違い、「ある一部の人間の思惑によって動かされている」のではなく、「AI による最適化された思考を学習させられている」ような感じがして、よりどうなんだ感が強いというか。そして、AI があらゆるものに浸透しているから、それに反対する声も探しにくくならないだろうか、とか、もしくは「AI に検閲されていない、ようやく見つけた真実 = 陰謀論」に簡単に騙されたりしないだろうか、とか、色んなことを考えてしまう。
自分と世界の間に、常に AI が仲介する感覚
- 「パソコンが好きで育ってきたことだし、パソコンを使って何か作るんだ!」→ イマドキの AI パソコンにはキーボードもマウスも接続できません、欲しいモノを言ってもらえれば作ります、ただし月額2万円のサブスクに加入しないとパソコンが起動しなくなります
- 「音楽を作って自分の思いを発信するんだ!」→ 自分が弾いたギターの音が、AI によって調整され、他のパートの音は自動的に生成されて楽曲になる → 歌詞に含まれるセンシティブなワードは AI に歌い直される → その楽曲は SNS でバズりやすい構成になっており、すぐさま SNS に投稿できる機能が付いている
- 「3DCG・VFX を駆使して人々を感動させる映画を作るんだ!」→ 脚本から AI にガッツリ依存 → 「こんなシーンなんだけど~」と説明したらレンダリング済みの映像がすぐ出力され、説明していない背景の景色から登場人物の動き、カラグレまで出来上がってる → 「スマホユーザ向けの縦型動画も生成しますか?」と聞いてくれる
極端な話、これくらい AI に頼った製作も、すぐ実現しそうな気がする。今の時点だって近いところが既にある。
でもコレって、「自分が作った」と思えるんだろうか。
他者から「あなたが作った」と認めてもらえるかどうか、っていう話じゃなくて、自分自身で、「コレは私の作品だ」と思えるのだろうか、自分がそれを引き受けられるのだろうか、ということだ。
判断に責任を持つ必要も、別にない時代になりそうだ。
なんなら視聴者側は視聴者側で、AI が性格や趣味を分析していて、「誰かが作ったホラー作品が届いたけど、あなたはホラーが苦手らしいから、怖いシーンは AI で改変したものをあなた向けに配信しますね」とか、「あなたジャズとか興味ないでしょう、この新曲をメタル調に変換したものを再生しますね!」なんてなってしまって、「出来上がった単一の作品」を同じ形で受信しない可能性だってあり得る。
何かを生み出そうとする時、自分が起点になっているはずなのに、そのシステム中のコードも、その楽曲中の音源も、その映像中の1コマのピクセルも、AI がお膳立てして生み出してくれた産物だったら、その製作、因果の中に自分がいないような、自分じゃなくてもいいような感覚になる。自分が全体を把握していない、自分がコントロールできている感がない。自分の一次的な行為が、どこにも残らない。それに違和感がある。
AI によって、何かを実現するハードルはグッと下がったし、可能性は無限大に広がったと言っていいと思う。でも僕は、「自分のすることを自分で理解しておきたい」「自分の行為に責任を持っておきたい」という気持ちが強いんだと思う。その感覚が、「何でもうまくやってくれる AI」というモノと相性が悪いように見えている。
繰り返すが、だからといって AI 否定派にもなりたくない。「CD よりもレコードの方が温かみがある」とかほざいてる連中をくっだらねと思って生きてきたし、新しいモノを取り入れず過去・ノスタルジーに固執するだけの短絡的な行動も、それはそれで「AI の存在」が前提になっている陳腐な反骨精神でダセェなと思うからだ。
自分なりの AI との向き合い方
AI に何かをやらせるのが当たり前になっても、
- 何をやるのか・どうしてやるのかは自分が決める
- 何をやらないことにするのか・何を否定するかは自分が決める
- 理性的に言語化できなくても、感覚的に身体が反応したことを大事にする
といったところなのかなぁ。
他の人が AI を駆使して作り出したモノに対しても、例えば「精巧なミニチュアで作ってる」とか「超リアルな VFX が~」とかいう、「人間が創意工夫をして上手く作った技巧」を楽しむフェーズは過ぎ去ったのかもしれない。
代わりに、その人が何を考え、何を否定し、何を譲れなかったか、という文脈を味わうのがメインになってくるのかもなぁ。
AI は「最適解」、常に「解」を提示するけど、
- すぐに解を決め付けずに曖昧な状態を保持し続けること
- 最適解、最短経路ばかりが全てではなく、非効率なことも時には引き受けること
というのは、「AI と比べて頭の足りてない人間ならでは」の出来ることかもしれない。
いくら AI が色んなことを高速に出来るようになったとしても、依然として自分という一人の生物は、
- 知能、技術、体力、運動能力が有限であり
- 老いと死という時間的制約が必ずある
ワケで。
有限な存在が生み出した、非効率で曖昧なところもあるけど、そんな自分を理解っていたモノ、というのを感じていたいのかな、と思った。
みんなは AI がコレだけ急速に進歩してきて、こういうこと悩まないんですか!?何も感じたりしないんですか?!何か思ってることがあったらさ、はてブのコメントでもいいし、Bluesky の僕のアカウントへのリプでもいいし、ゲストブックでもいいので、何か教えてほしい。自分がよく分かんなくなっちゃった!w