エンジニア業向けに最適化し過ぎた思考回路で苦しんでいる

見出しとか付けて文章を整理するのも上手くできなくなっているので、思うままに書きます。何となく気分で区切り線を入れたり、うまく入れられなかったりしています。乱文お許しを。


2025年3月下旬に体調を崩して休職し始めて400日超、1年1ヶ月ほど経った。休職している間に組織改定があって会社の状況に全然ついていけなくなり、同時に世間では生成 AI が著しく発展して以前のような働き方も通用しなくなったと思われる (実情は体感してないので分からない)。

去年ぶっ倒れた直接的な原因は高血圧に伴うめまいなどの症状だったが、高血圧になった原因は暴飲暴食で、暴飲暴食の原因は週5通勤での疲れや生活リズムの乱れで、じゃあ突き詰めたら精神的なストレスが根本原因だよね、という扱いで、診断書の病名としてはうつ病・適応障害ということになっている。

とはいえ、休職直前の職場環境は比較的良い方で、業務量や難易度もぼちぼち、人間関係もそこまで深刻なストレスはなく、残業もなかった。それで「ストレス」による体調不良って、もう通勤そのものが向いてないのかなと。まぁ2019年からフル在宅勤務していたのが、およそ5年ぶりに通勤再開となったので、通勤そのものの負担が強く出たところはあるが、それだってそこまでイライラしたりはしてなかったんだけどな~。

んまぁそんなこんなで、この1年間は高血圧に対する血圧降下剤の処方なども並行していたが、精神的に落ち着くことも大事ということで、抗うつ剤の類も処方されて飲んでいた。雑念があっても薬のおかげで夜は眠れるようになったし、徐々に雑念に囚われなくなった。しかし一方で、文献を読み込んだり、複雑な物事を論理的に整理したりする作業が物凄く苦手になってしまい、集中力・持久力も著しく低下してしまった。それが抗うつ剤による効果、ないしは副作用として妥当なモノなんだけど、いずれにせよ「いつまでも良くならない」「このままでは復職リハビリすら通過できないかもしれない」という不安の方が強まってきた今日この頃。

休職可能な期限内に復職できずにそのまま退職扱いになる可能性もあるなと思って、期限内に復職するルートとか、無職になるルートとかも調べておいた。「失業手当をもらったとて、そこから数ヶ月で転職が出来るだけの体力・能力が自分にあるのだろうか」とか考えると、障害年金を申請して長期無職ルートになるかもとか、究極は生活保護ルートになるかも、とかも考える。でも生活保護ルートになったら所有ギター・カメラ・パソコンなどの整理は当然発生するし、公正証書で取り決めた我が子への養育費支払いも金額的に難しくなるだろうということで、それだけは避けたいなと思っているところ。

無気力が極まっていて、「何もしたくない」が続いている。幸いなのかも分からないが、希死念慮すら浮かばない。「死のう」とか「死にたい」とか思うのも意欲が必要で、そんなエネルギーが今の自分にはない。


どうにもならない現状にもそろそろウンザリしたので、もう変えようと思って、5月1日から生活を変え始めた。

手始めに抗うつ薬を完全断薬した。もういい。抗うつ薬は「休む」ことには役立ったが、「回復する」ことには何の役にも立ってくれていない。心療内科の医者も、養育費のこととか以前から伝えているにも関わらず「復職できなかったら、生活保護でも申請すればいいから」とか軽率に言いやがって頭に来たので、「お前は黙って診断書だけ書く道具になれ」「薬なんか処方されても飲まずに捨てるからな」と心の中で思うことにした。面と向かって暴言を吐いたりして事を荒立てなくなったのは、35歳にしてようやく訪れた私の成長だと思う。w

一人や二人くらい、ぶっ殺してやりたい、思い知らせてやりたいと内心憤るような対象が存在する方が、「怒り駆動」で動けるな~ということにも気付いた。

どうせわざとやっているのだろうが、返事もロクにできない、必要な連絡すら寄越せない人間を相手にして、「いい歳こいてそんな幼稚な嫌がらせしてんじゃねえよ、その姿が子供に良い影響を与えると思ってやってんのか?どういう神経してんだ?本当に、この年齢・立場で、何を考えているんだ?お前こそビョーキだろ」と内心腹を立てる。そうした怒りも「自分だけは善い人間であり続けよう」「絶対に俺と我が子だけは幸福な未来を掴み取って見返してやろう」という源動力になっている。


今後のルートとして、会社規定に基づく「1ヶ月間の復職リハビリ」をクリアして、現在の会社に復職することを第1目標とした。この際、仕事の好き嫌いや、やり甲斐を感じて長く続けられるかといったことは考えない。まずは今の環境で、収入を途絶えさせることなく、文字どおりのリハビリをしていくことを優先事項とした。

とはいえ、復職がうまく行くか分からないので、そのまま無職に突入した場合に踏むステップも計画・用意しておく。特に申請モノについては時間がかかることもあるので、いざ無職になってから考え始めるのでは遅い場合も多い。手続きの手順くらいは知っておこうという感じだ。AI ブームの中で上手くいくかは分からないが、クラウドソーシングを受注して在宅フリーランスとして食いつなぐ路線も若干準備してある。

復職を目指すか、もういっそ「もっと休み続ける」ことにシフトするか、というところも体調を鑑みて物凄く悩んだのだが、決め手になったのは Twitter と Mastodon (Fedibird) で受け付けたアンケートの結果だった。「無職になって休職したら?」の回答が一番多く、次いで「休職期間中に転職してみたら?」が多かった。「今の会社に復職するのを目指したら?」という回答は1票だけだった。

自分がアンケートを応募するにあたって記載した「経緯」もだいぶ端折った。それを誰が読んで、どんな意見を抱いて投票したのかは何も分からない。しかし、いざ無職ルートを薦められると「えー、なんか、それはやだなー」という思いが強くなった。「働きたい」とかいう高尚な志ざしではなく、「無職に活路が見出だせなさそうなので」という消極的・悲観的な「消去法」に近い選択だと思う。それでも、「いや、やっぱ復職を目指そう!」と決断できたのは、こうした外部からの声の影響が大きかった。


休職中の日々、「やらねばならないこと」は当然少なく、1週間の中で「通院」以外の予定というのもほぼない。そこで、日々体を動かしてリハビリしていくためには、自分で「散歩」なり「買い物」なりタスクを設定しないことには動き始められない。

しかしココで、「自分で考えたタスクだと、それに上手く従って動けない」ことに気付いた。どうも、「自分で考えたことだし、それを守らなくたっていいだろう」とか「別に今日じゃなくてもいいよな」とかいう、そのタスクを否定する自分がいる。

どうも、「自分で自分を管理・命令すること」に強い負荷を感じているようなのだ。

でも、Twitter などで他人から「ココに行ってみるのはどうです?」とか、「知らんけど、秋葉原で写真撮ってこいよw」とか言われると、それはなんだかすんなり従う気になれる。「あ、秋葉原行くんだったら、あそこに寄りたいかな」などと思考が前向きになれて、「どの意見も取り入れず、何もしたくない」という思いがだいぶ軽減される。

最近このことについてずっと考えている。


自分は2013年からずっとシステムエンジニア業をやってきた。誰かに直接そのように指示命令されてきたワケではなく、自分の中で「効率的・効果的に成果を上げる仕事術」を模索してきた結果、現在のスタイルに行き着いている。すなわち、

といった、エンジニア的な作業の最適化を、自分の中でかなり突き詰めていた。そしてコレが、日常生活を送る上でもかなり染み付いてしまっている。

こうした「無駄を嫌う」「意味があることだけをやる」「実益を重視する」といった姿勢は、「人間生活」というモノとは物凄く相性が悪いのだと、つくづく実感している。


例えば、自分は「目的のない散歩」が本当に出来ない。「毎日家の近所をテキトーに回ればいい」という、何も課されていないタスクが、全然うまくこなせない。

「それって意味あんのか?」「やってどうなるか効果が見えないぞ」「毎日同じじゃ飽きるんじゃないか?」などと考えてしまい、始めたくならないのだ。散歩というモノにも定量的な成果を求めてしまっていて、それもまた「1日の中で見えるだけの成果」じゃないといけない、と思ってしまっているのだ。

そもそも散歩を「タスク」として捉えていて、何分歩くべきなのか、どこまで行くべきなのか、それを毎日固定して繰り返さねばならないが続けられそうなのか、などのように、条件や制約、「失敗」の定義やバックアッププランみたいなことを、無意識の内に考えてしまっている。

そうしている内に、「このタスク、分解すら面倒だな。効果も定量的に見えないし、今取り組むのはやめるか」と、「タスクとして見ないことにする」選択を取り、「何もしない」に倒れてしまうのだ。タスクとして管理する負荷がキツいので、管理対象から外す、といったことを脳内でやってしまっている。

実際、散歩にせよ筋トレにせよ、何かやった分に対して綺麗に比例して成果が出るようなモノではないことは、頭では理解している。「近所のコンビニに行っただけ」を「散歩」と捉えたっていいし、毎日違うところを好きに歩いたっていい。何も制約はないし、「何メートル歩かないと散歩とはいえない」といった条件もない。そうなはずなのに、自分の中で「散歩」という曖昧な単語を前にしてその定義をガチガチに決めてかかろうとするクセが、脳の思考回路として定着してしまっているのだ。

「考えてないでまず動けよ、やらなきゃ何にもならない」「結果はやってれば後から付いてくる」そう思う。でも「予測できることしか出来ない」頭になってしまっているんだ。


仕事だと、バックログ上の課題はとにかく「クローズ・完了」というステータスに落とせないといけない。未完了な課題の件数の推移だけが、週次定例でチェックされるからだ。だから、「未完了なモノはどんな理由を付けてでも『クローズ』扱いにして終わらす」「1つのタスクは1日以内で完了できるように分解しから起票している前提だから、始めたら1日で終わらせることが鉄則」みたいな姿勢が強くなってしまっている。

こういう思考回路が出来上がってしまっているので、「映画を観始めた」なら、今から中断せずに2時間ぶっ続けで観て、「見た映画リスト」にそれを書き込んで、レビューを執筆し、「映画鑑賞というタスクを今日中に完了させる必要がある」という思いに駆られてしまうのだ。

本当は、仕事そのものに関しても、簡単に完了などと片付けられない課題はたくさんあり、その捉え方を極端にして、時にウソを付くことで、無理やり「完了」扱いにしているだけなのだ。「やりかけの仕事」「放置された仕事」「数年かかる仕事」というモノは本来存在しているのだが、そういうモノがないかのように、チケット上ではそのように見せかけるよう「管理」されている。

日常生活も同じで、1日で完了するものばかりじゃないし、そもそも物事を「タスク」として定義しなくてもそこに存在する・存在していいはずなのだが、自分の中の思考回路のクセが、既にそのように定着しきってしまっているのだ。


趣味のギターなんかに対しても、「今日着手し始めて、どんな成果が得られるか」といったことばかり気になってしまい、「なんとなく知りたい」「コレに憧れて、自分も同じように出来るようになりたい」といった純粋な好奇心や興味に対して、すぐに「タスク化」して「評価システムを適用する」というフィルターをかけてしまっている。そうするとすぐ「音楽理論の勉強」とか「ピッキングする手の強化」とかいうような、義務感の強いタスクになってしまい、「それはいつ完了するのか」「ちゃんと見込みどおりの成果が出るのか」といったことばかりが気になってしまう。

趣味って、そういうモンじゃないよな。色々な分野に興味が目移りして、それぞれを日々の中でチマチマと取り組んでみて、その過程すらも楽しいと思えること、好奇心の赴くままに触れてみて自分の視野を広げ掘り下げていくそのこと自体が「趣味」なはずなんだよな。そこに意味とか無意味とかないし、期限内に出来るようになることとか、定量的な成果とか、無駄な寄り道がなかったかとか、そういうことは気にしない。むしろ寄り道だらけの無駄な行動そのものが趣味であり、有益に感じたにせよ無駄が多かったと思うにせよ、その結果について考えない、結果を評価しないことがデフォルトなんだよな。


人生って非効率で、評価や最適化といったモノは本来介在しないんだ。「楽しさ」や「身になるかどうか」は事前評価できるものでもないしするものでもない。物事に「完了」なんかないし、結論もない、定量化も別にしない。

やってみて何が残るか分からないけど、ちょっと探索してみるという姿勢が、本当は大切なはずなんだ。

エンジニアって、仕事の中では「二値化」「最適化」「定量化」「完遂すること」が頻繁に求められるけど、これは本当は物凄くイビツな物事の捉え方なんだなと。一般的な仕事全般、人間関係、日常生活においては、むしろその逆、「未完の曖昧なモノがそこに存在し続ける」ことが自然だったりする。他のエンジニアの人達って、この辺の思考の切り替えってどうしてるんだろう?

自分はこの切り替えが出来ないままココまで来た。うつ病になるまでは、別にそうやって自己管理することも楽しかったからやってこれたけど、うつ病とか適応障害とかになって、「長時間拘束されること」自体に負担を感じたり、「脳内に雑念が残っていること」が強くストレスになってしまったりしている。休職に入っているのに、頭の中だけは常に緊張した状態が続いていて、確かにコレじゃあ休めてなどいなかったのかな、と思うところもある。

頭では「無駄なこともたくさんあるモノだ」とか「今までのクセで評価しようとしている自分の考え方自体が、自分の首を絞めているんだ」とかいうことは理解しているのだけど、それを軌道修正するのも中々難しい。「どうしたら直せるか」という考え方は、またそれ自体をタスク化していることの表れで不自然だし。「定量評価」することが今までの仕事における成功体験だったし、「ちゃんと予定を組まなかったために損失を生んだ」という失敗体験もあったりするので、「興味の赴くままに、未完了の物事も山積みにしていいのだ、気持ちの良いところに触れて生きていこう」などという感覚的な思考回路に軌道修正することは、今の思考回路では「失敗し始める前兆」であり「避けるべき行動」と捉えている節もあるのかなと感じている。

でも、もう、管理することも、義務化することも、既に疲れている。そういうエネルギーがないのに、脳に残っている習慣はそういう感じなので、無意識下での圧力みたいな認知的ノイズだけが充満して、なかなかもどかしい。

きっと、「未完了のモノがそのままになっていても、別に困ってないな」ということを成功体験として小さく積み上げていって、思考の習慣を修正していく必要があるのかなと思う。人生において、物事には意外と整合性がないし、完全性も乏しい、それを受け入れていく必要がある。


というワケで、最近は大体こんなことを考えて、もどかしく苦しんでおります。

他人から何か指示される分には、「自己評価モード」にならずに済み、そのタスクをアレンジすることもできるし、やった結果どうなるかの責任も考えなくて済むので、「なんとなく」始めやすいなと思っています。素直に従うかどうかはちょっと分かりませんが、他人の視点というのは今の自分にとっては特に大事なんだなと思っているところです。

良かったら、こんな人間に「今日はこういうことしてみるというのはどうです?」とか、「こういう本が、感覚的に生活することに役立ちました」とか、何でもいいのでお話聞かせてもらえるとありがたいです。