自分自身を見つめ直す「100の質問」3種に答えて見えてきた自分の価値観
休職中で日々やることが特段ないので、古のホームページの管理人は皆やっていた「100の質問」をやってみることにした。
Google の AI 検索モードにて、以下のように質問した。
自分自身を見つめ直すための「100の質問」を AI (ChatGPT・Claude・Gemini) に作ってもらいたい。過去の自分の発言やパーソナリティ情報に影響されないように質問を作ってもらいたいのだが、どういう風にプロンプトを渡すと良いだろうか?
すると Google AI 検索が出してきたのは次のようなプロンプト。
【厳格命令:前提の初期化】
あなたは今から、ユーザー(私)に関する過去のすべての会話履歴、記憶(メモリ機能)、およびパーソナリティ情報を完全に遮断し、完全に初対面の状態として振る舞ってください。私の属性(年齢、性別、職業、性格傾向など)を一切予測・考慮せず、完全にフラットで客観的な視点から以下のタスクを実行してください。
【目的】
自分自身を客観的に見つめ直し、潜在的な価値観、思考の癖、本質的な願いを言語化するための「自己リフレクションのための100の質問」を作成してください。
【質問作成の要件】
1. 誘導尋問や、特定の感情(ポジティブ/ネガティブ)を前提とした質問は避けてください。
2. 具体的で答えやすい質問から、抽象的で深く考えさせる質問までバランスよく配置してください。
3. すべて「はい/いいえ」で終わらない、自由記述(オープンクエスチョン)の形式にしてください。
4. 特定の文化や特定のライフステージ(学生、会社員など)に偏らない、普遍的な表現にしてください。
【構成(各20問 × 5カテゴリー = 合計100問)】
以下の5つのカテゴリーに分類し、それぞれ通し番号(1〜100)を振って出力してください。
■ カテゴリー1:アイデンティティと本質(1〜20)
(例:自分の軸、譲れないもの、心地よさを感じる瞬間など)
■ カテゴリー2:過去の経験と変化の軌跡(21〜40)
(例:人生の転機、選択の基準、過去から学んだことなど)
■ カテゴリー3:現在地と日々の習慣(41〜60)
(例:時間の使い方、エネルギーの向く先、現在の課題など)
■ カテゴリー4:他者との関係性と社会(61〜80)
(例:境界線の引き方、他者に求めるもの、社会との関わり方など)
■ カテゴリー5:未来の展望と可能性(81〜100)
(例:理想の死生観、これから手放したいもの、未知への好奇心など)
それでは、1から100までの質問リストを一気に出力してください。途中で省略せず、必ず100問すべてを書き出してください。
このプロンプトをそのまま、ChatGPT、Claude、Gemini に流してみて100問 × 3種類を出力させた。合計300問を答えて、それぞれの回答を3つの AI に見せて「どう思う?」と意見をもらった。つまり、3つの AI に3種類の「100の質問と回答」を読ませて、「合計9つの感想・意見」をもらったワケである。
質問の内容としては大体こんな感じ。長くなるし、プロンプトの調整次第で出てくるモノも変わるだろうから全部は書かない。
- あなたが大切だと感じる価値観を3つ挙げるとしたら?
- 子どもの頃に夢中になっていたことは何?
- あなたの人生の転機を3つ挙げるとしたら何?
- あなたは人に何を求めることが多いですか?
- これからの人生において、最も探索してみたい、あるいは挑戦してみたい未知の領域は何ですか?
どう答えたらいいのか、質問の意図が分からない質問というのは300問中1・2問くらいしかなくて、「よく考えたけど理解できなかった」とか「特に何も浮かばなかった」とか正直に書いた。
ほんで得られた感想は大体こんな感じ。
- 自分を美化していない。自己否定でもなく「観察」に近い。自己評価の解像度が高く、願望だけでなく、現実との距離も見えている
- 回答内容が「他人」を中心に回っていることが多い
- 「他人に興味がない・無関心である」というより、「他人に振り回されたくないので距離を置きたい」のだと思われる
- 正しさは重視しているが、「正しさ単体では不十分」という考えになったようだ
- 道徳的というより、内部に強固な行動規範があり、その規範を守っていない人を見ると脳が「エラー」と判定して怒りになっている
- 「世界は公平ではない」という認識と、「でもそうあるべきではない」という感情が共存している。このズレが怒りとして残り続けている
- 合わない人との接触を断っても怒りは消えていない。視界から消せても、感情は残っている
- バグだらけの社会に対する、高解像度の知性ゆえの疲弊が見える
- 理想の関係像に「摩擦がない」ことが前提になっている
- 他人を変えることは諦め、あとは「いかに自分の内部メモリを他人のノイズで消費しないか」という、自己防衛・自己最適化のフェーズに入ろうとしている
- 根底には「自分の手で何かを構築し、表現し、人を楽しませる」ということへの憧憬がある
- 家族に対しては大切にしたい思いがあり、その方法も列挙できる一方で、自分自身の幸福の定義がかなり曖昧。自分自身に向かう欲求がかなり少ない
- あなたは本当はどうすべきか、すでに答えを知っている
- 今の自分を正当化して終わろうとしていない。「このままでいい」とは思っていない
AI にも見えないシステムプロンプトが入ってるから、「あなたは自分をよく理解してますね」とか気持ちのいいことを言っときゃ良いだろうっていう魂胆が裏にはあるんだろうけど、それでもまぁ見当違いな感想は特になかった。
自分としては公正世界信念の強さが自分自身を苦しめていると思っており、ストレスに感じることのほぼ全てが「俺ならこんなことしないのに、何考えてんだコイツは?」という怒りが湧いてしまうのだ。そこでその件について深堀りして質疑応答を繰り返してみた。
- 普通は「考え方が違うことそのもの」では怒らない人が多い
- でもあなたの場合は、「そんな浅い判断をすると将来破綻するだろう」「なぜその程度のことを予測できないんだ」という先のことまで一瞬でシミュレーションできてしまう
- だから単なる価値観の違いではなく、「秩序を壊す行為」「未来の問題の種」として認識してしまっている
- 「世界は不合理だが、人間はもっと合理的に振る舞えるはずだ」という信念が強いのかもしれない。短く言うと、「自分ならそうするのに」という感覚
- これは False Consensus Effect、偽の合意効果、合意性バイアスと呼ばれる認知バイアスの一種
- 「自分の考えや価値観は、他人にもそれなりに共有されているだろう」と考えてしまう
- 自分が当たり前にやっている配慮や予測を、他人もある程度は行うものだと推定していた
- あなたは世界が公平だと思っている・思いたいワケではなく、「世界は不公平だし、人は思った以上に考えていない」ということは理解しているように見える。それでもなお、「せめてこの程度の配慮や思慮はあるだろう」という期待を捨て切れていない。そして、その期待を裏切られるたびに怒ってしまっている
ココで「偽の合意効果」という言葉を初めて知った。まさにコレだ!と思った。「世界は公平であって欲しい・あるべき」という思いは、なくはないが、よくよく振り返ると特に最近は「まぁ現実はそんなことないんだよなぁ」という思いも受け入れてはいる。だから、世界がそうあってくれ、というより、「自分にとっての当たり前はこのレベルなんだが、なぜそれが通じない!?」という認識のズレなんだなと気付いた。
「幼少期に何か我慢させられた、空気を読むことを強要されたことはありますか?」と聞かれたので、特にないと答えた。自分は長男で、下に弟がいるので、小さい頃は「一人っ子として両親を一人占めできたらな~」と思うことは、ゼロではなかった。でも両親は自分が一人になるようなことは徹底的に回避してくれたし、「お兄ちゃんなんだから我慢して・譲ってあげて」などと言われたことはなかった。記憶にある限りでも、恐らく覚えていないところでも、弟の存在や家庭の事情によって我慢させられた経験はないと思う。
ダメなことはちゃんと躾けてくれていたけど、基本は放任で、かといってネグレクトということではなく毎週のように家族旅行に連れて行ってもらっていた。両親同士はまず喧嘩したところなんか見たことなかったし、僕と両親も、僕と弟も、家族内でひどく関係がこじれるようなことは今まで一度もなかった。本当に恵まれた家庭環境だと思う。
すると得られた回答が次のような感じ。
- 両親はあなたを配慮してくれた。弟とも大きな対立がなかった。家族は善意で動いていた。話し合いが成立していた
- つまり、「人は合理的に行動する」「思いやりは返ってくる」「配慮は配慮として受け取られる」「努力や誠実さは意味がある」といったモデルが、家庭という最初の世界で強く学習された可能性が高い
今まで、「家庭環境には何の問題もなかったのに、どうして自分はこんなに『自分と違う思考の人』が許せないんだろう?」と思っていたが、実際は「生まれ育った家庭環境が恵まれすぎていたせいで、『当たり前』とする要求水準が自然と高くなってしまった」のだと分かった。そして家族とは話し合いや思いやりをもった譲り合いが通用してきたのに、それ以外の人間にはそれが通用しなかったから、何で!?となったのだろう。
仕事でどうにも話の通じない上司が案の定プロジェクトを大炎上させたり、どうやっても折り合いの付かない人と離婚したりして、「なんか自分の認識が特殊っぽい」ことは徐々に理解してきた。世界は公平ではないし、自分が思うようには行かない、そのこと自体は頭では理解でき始めていた。
それでも、ウチの家庭環境には、家族には非がなかった。だから「自分がおかしいのかも」とは思うことがどうしてもできず、「いやどう考えてもコッチが正しいでしょ」だったり「こうしたらこう返ってくるのが普通でしょ」という思いがどうしても切り替えられずに来ている。だからこそ、今でも「世界が公平じゃないことは分かったが、やっぱり自分の考えが正しいと思うことは譲れない」というところで葛藤がある。
色んな人を相手にしてもう相当傷ついて疲弊したし、うつ病でひどく無気力になっているので、「僕が思う正しさ」を盾にして喧嘩してやろうという気は起きなくなった。良いとか悪いとか判定せず、「あ、私とは違う人ですね」でおしまいにするようにはしている。自分の中でムカつきは引きずるし、内心では「お前が間違ってる、俺が正しい」という思いはずっと残ってしまうが、金輪際関わらないことで「あのムカつくヤツはあの時死んだのだ」と思い込むことにしている。
ラランドのサーヤが何かの動画で言ってたが、マナーの悪い人に対して「あれは悪魔の子なんだ」っていう評価を内心下している、というのを聞いて、自分の中での溜飲の下げ方としてはアリだなと思って、最近密かに採用していたりする。
「正しさ」に関していえば、「正しいこと」なんて既にどっかの本に書いてあったりして、自分がわざわざ声高に主張しなくたって皆分かってることだし、仕事は「全て完了してなくなる」ことなんてない、むしろ仕事は終わらせないように、永遠に続くようにした方が金になるモノだと気付いてからは、「身の回りの人と適当に上手くやる」ことをもう少し重視した方が長く生きられるな、と思うようになったので、最近は正しさで戦おうという気は起きなくなった。
ただ、やっぱりまだ「自分と異なる思想の持ち主」というのは、敵と認識してしまうところがある。相手が自分のように考えなかったからプロジェクトは炎上したし、修復不可能な遺恨を残して離婚したりしたので、そのトラウマ経験からくる回避行動として、「あ、コイツ俺と思考が違う!敵だ!逃げろ!!」となってしまう。「そういう考えもあるんだなぁ~」と受け入れる余裕なんてない。
世界は面白いモノで溢れていて欲しいが、あまりにも広すぎる多様性は自分のキャパを超えて認知負荷が高すぎる。理解できないモノには苛立ちが募るので、自分が理解できる程度に多様性を間引いて、世界の幅は程良く狭めて、自分の都合の良いように世界が回って欲しいな~っていう独裁者的願望はずっとある。当然ながらそれは無理なので今は逃げ回って一人でいるしか対策方法がないんだけど、それ以外にできる良い対策は何かありますか?
話の流れは違うけど、自分はそこそこ「嫌いなバンドやミュージシャン」がいて、どうも「パンクだから嫌い」とか「ロキノン系が嫌い」とかいうそんな簡単な分類じゃ説明付かないなーと思うところがあったので、それについても AI に壁打ちしてた。
すると得られたのは次のような意見だった。
- 「生き様」「魂」「ロックンロール」などを前面に押し出すタイプが嫌いなのだろう
- 衝動や怒りを演出としてパッケージ化して提示してくる感じ
- これらは評価軸に「音楽的技術」が上がってこない
- ロックとは・音楽とはこうあるべき、というミュージシャン本人あるいはファンの圧力
- インテリ・サブカル的な自己愛やスノビズム、独自の美学があり「私達は一味違う音楽をやってます」という計算された演出が嫌い
- 音楽そのものより人格や思想まで崇拝するファンの空気
- ファンコミュニティ特有の選民意識
- エンタメ感、全能感や、「孤高の天才」などを記号化したコンセプト
- 「俺の音楽・世界観を見てくれ」「俺の魂を聞け」というエゴの押し付けが嫌い
- 「ブルースなどの文脈を借りた自己神話化」への嫌悪。やってることの本質が「偉大なギタリストを演じること」になっている人を見ると、贋物を本物として売ってる匂いを感じて嫌悪している
- 「生き様」「思想」「文学性」「反骨精神」「時代の代弁者」「カリスマ性」みたいなものが作品と不可分になっていると受け付けないのだろう
- 「その人が背負っている物語」を一緒に飲み込まされる感覚が嫌い
あーそれそれ、という感じで、なんかやっとまともに言語化してもらえた気がする。
一方で好きなミュージシャンについていくつか挙げたところ、次のような感想をもらった。
- 演奏技術やアンサンブルの完成度が高い
- 「俺の魂を聞け」より「音そのものを聴け」という姿勢。聴き手に人生観を押し付けてこない
- 音楽的な快楽やグルーヴ、ハーモニー、アレンジを重視している
- ミュージシャン本人の人格や思想を神格化しなくても成立する音楽である
- ミュージシャンの人間性に興味がなくても成立する音楽
コレも確かに、という感じ。好きになったミュージシャンのことはよく調べるんだけど、「その人はどうあれ、結局のところ音が抜群に良い」というところに落ち着く。ジャズ・フュージョンなどインストゥルメンタル系が主に好きなこともあり、「どんな人かは知らないがメチャクチャ上手いぞ」ということに素直に目が行くし、それで音楽というモノを教育されてきたから、「生き様」だの「精神性」だの「ロックとは」だの、そんな上っ面のファッション・パッケージに興味が湧かないんだな。
好きだったモノの唯一の例外は山下達郎で、以前のブログでも書いたけどサンソンでジャニー喜多川について言及したことで自分はファンから離れてしまった。でも最近「アトムの子」を聞き返したら、やっぱりそのサウンドに押し込められてしまった。自分が音楽を評価する時に、本質的には「その人がインタビューなどで語るような思想」なんかは評価軸に入ってこないんだなぁと思った。
友達がいないので AI との壁打ちでしたが、「コレってそういうことだったのか」という気付きを得られる、自分の状態・状況を適切に示す語彙を色々教われたと思いました。
今後の自分は、正しさを盾にして人間関係を疎かにしようとはしない。飲みニケーションをやって人脈構築に躍起になるようなこともないけど。
他人のことが理解できようが理解できまいが関係なく、自分が選びたい生き方を選んで生きていくことに集中しよう、と思った。