ACT によって面倒くさがりの完璧主義やうつ病の意欲低下を改善できてきたかもしれない
ココ5年くらいの自分の性格はこんな感じだった。
- 自分は論理的に正しいことを言っているのだから、それが通用しないのはおかしい、相手や世界の方が直すべきだ
- → でも自分の言い分が通じず、生活を壊される体験をした。二度と自分の領域を侵害されたくない
- 面倒なことはなるべくやらないようにし、やらなければならないとなったら効率的に最適化し、最小の労力でサッサと終わらせたい
- → 「オープンされたチケットはその日のうちにクローズせねばならない」という強迫観念のようなモノが形成された
- ミスがあってはいけないし、成果物は完璧でなければならない
- → 一つでも完璧に出来ないところがあると一気にやる気をなくし、「もうどうなってもいいや」と投げやりになる
こうした性格・思考回路のせいで、
- 仕事は面倒なことなのでやりたくない、という強い抵抗感が四六時中続く
- 残業は自分の時間が侵害されることなので絶対にしたくない。抵抗感とともに「いかに残業せずにこなすか」を業務外でも常に考え続けてしまう
- 少しでも意見が対立した人間に対して「俺を侵害する気か?!」と強く苛立ち、帰宅後も土日もそのことでイライラし続けてしまう
というような高ストレス状態が続き、病名としては「うつ病・適応障害」と診断され、休職が長引いてしまっていた。
今回はこの性格・思考回路が「ACT (アクセプタンス & コミットメント・セラピー)」という認知行動療法の考え方によって改善傾向に向かいつつある、という話をする。
目次
- 「生まれつきの性格」なのはどこまでだった?
- 仕事によって後天的に強化された思考
- ココ5年でさらに強化された思考
- 復職を目前に強い抵抗感
- ACT という考え方を知る
- 脳の仕組みとバイアスを意識する
- 動き始められなくて困ってる人は、試してみて
「生まれつきの性格」なのはどこまでだった?
「嫌だと感じたことはやりたくない」とか「正しいと思うことを否定されるのは納得いかない」とか、それ自体は誰しもが感じることだと思うが、重要なのは「現実世界と自分との折り合いがどれくらい上手くつけられたか」であろう。そこで、こうした性格や考え方はどれくらい「先天的」なモノだったのか、小学校くらいまでの時代の自分を思い出せる範囲で考えてみる。
- 夏休みの宿題は「面倒臭い」ので先延ばししがちだった。でも締め切りを破ることはなかった。「怒られても知らんぷりして、やらずに押し通す」こともできなかった・しなかった
- 面倒臭い、嫌だと思って逃げはするものの、「何としてでも『やらない』を達成する」ほどの強固な意志でもなく、諦めもついた
- 一人でゲームをしたいタイプだったので、急に友達から「今日遊ばない?」と言われると抵抗はあった。でもそれが可愛い女の子からの誘いだったらホイホイ付いていった
- つまり「予定や計画が変更することが無条件に負担」というワケではなく、「予定変更によって得られる報酬を計算して、納得できれば予定変更はできた」
- 書類の束は角を揃えて置きたい、というような几帳面さはあった。でも誰かにそれを崩されても、内心はムッとしても、「どうしてもそれを直したい」というような強迫観念まではなかった
- だらしないクラスメイトがいてグループワークがうまく進まない、というような時、イライラはしたものの、全体的には「グループ内の調和」や「周りの人の顔色」、「先生からの見られ方」などを考えて動いていたと思う
- 「その話題について触れてほしくない人」とかの顔色はよく見えていたので、無神経にズケズケと尋ねてしまうクラスメイトを見て「おいおい、やめとけよ…嫌がってるだろ…」と思っている側だった
- 忘れ物はほぼしなかった。やりたいことを我慢できず衝動的に動いてしまうことも特になかった
- ポケモンは図鑑をコンプリートし、全員レベル100にし、図鑑 No. 順にボックスに入れていた。「進化前」と「進化後」で同系統のポケモンでも2匹・3匹捕まえ、151匹ピッタリをボックスに入れていた
- 几帳面さ、コンプリート癖、完璧主義的な要素は幼少期からあった
いわゆる ADHD や ASD といった分かりやすい特徴は、一部かすってもいるけどガッツリ当てはまってもいない、と思う。
几帳面で心配性で神経質、自分の希望やこだわり、一貫性は強かった。でも同時に他人の感情にも気付けたし、状況に応じた柔軟性もあり、「俺の考えの方がより良いと思うんだけどな」と思っても空気を読んで取り下げることもあった。面倒なことに対する抵抗感は強く、積極的に運動するタイプではなかった。そんなところだろうか。
仕事によって後天的に強化された思考
就職活動の時、よく「好きなことを仕事にしよう」という話を聞かされた気がする。好きなら長続きするしやり甲斐もあるから、みたいなそんな理由だったと思う。いつの間にかコレを逆転させて「好きでないなら、仕事にしない方が良い」という刷り込みにもなっていた気がして、今にして思うとコレは選択肢を減らしてしまうだけなのでは?という気もする。ともかく当時の自分は、「パソコンとかホームページ作るのとか好きだから、プログラマになろうかな」ということにして就職活動をした。
2013年にシステムエンジニアとして就職してから、仕事上の考え方、エンジニアとして望ましいやり方、というのを学んでいく中で、それを私生活や人生にも適用できる・適用すべきモノだと拡大解釈していったことは明らかにある。
- ウォーターフォール開発により、計画を立てて、計画どおりに遂行することが身に染み付いた
- 途中での計画変更は悪、防がなくてはならない、防げないと面倒事に発展する、という学習も強化された
- 残業はしたくない。自分の時間は守りたいから。そのためにはやっぱり計画は大事、計画変更には合理的な理由がなければならない
- 手戻りが発生しようものなら残業に繋がるので徹底回避
- ミスをすると (障害を起こすと) 周りに迷惑をかけるので、ミスがないように、事前の計画はやはり大事、正しさを共有することが重要
- 論理的に説明できることが正しく、「なんとなくそう思った」といった曖昧さが存在するのは間違いである、という思考
- 定例会議では「前回からクローズできたチケット (課題) の数」のみをチェックされる。よってチケットはオープンされたら即時クローズし、翌日まで持ち込むべきではない
- 「タスクはその日のうちに完了できる粒度に分解する」という前提から、「タスクが存在するということは、そのタスクは今日中に完了させねばならない」という風に強迫観念化した
嫌だからやらない、という回避欲求も含まれていないワケではないが、どちらかというと「やることは計画に沿って・正しく・期限内に」という点が強化された気がする。
コレが私生活に及ぶと、
- 「朝のゴミ出し」というタスクがある → 前日から強く意識 → それでいて寝坊でゴミ出しができなかったら
- 予定どおりにタスクをこなせなかった罪悪感
- (もう今日中に完了させるようには対応できないため)「取り返しのつかない大規模障害」として何日も引きずるミス
- 友達・恋人との意見の衝突において「自分の考えの論理的正しさ・効率の良さ」をもって説得しようとする
- 「感情なんて重要じゃない、いかに正しくて無駄がないかどうかだけが重要だ」という考え
- 通勤中に遭遇する「エスカレーター渋滞の非効率さ」「改札の手前で立ち止まる迷惑な人」に強くイライラする
- 俺は他人に迷惑をかけないように生きているのに、お前らはなぜ最適化せず、非効率なやり方をするんだ?俺の迷惑になっているぞ!?という苛立ち
こんな感じで、自分のことも責めるし、他人のことも理論武装して正しさで殴る。なんせ自分の考えは「正しい」んだから言いくるめられると気持ちが良い。まさに「言ってることは分かるが言い方が気に食わない」なんだが、「言い方が気に食わなかろうがお前が間違ってんだよ、お前がやれ」と言い返してしまうタイプだった。仕事で培ったモノが何にでも適用できる「ゴールデンハンマー」だと思っていて、特に「自分を含めた人間の感情」を軽視したことは良い結果を生まなかった。
ココ5年でさらに強化された思考
子供をもうけるも離婚し、子供と離れ離れになる。同時期の仕事はアジャイルを履き違えた自称スクラムマスターに案件をグチャグチャにされ全社規模で炎上、疲労がたたって2022年に初めて「うつ病・適応障害」として休職した。この時の経験から、以下のような思考が強く形成された。
- いかに自分が正しくても、間違っている相手が「勝って」しまい、自分の自由や生活を侵害してくる恐れがある
- → 意見の対立は「自分の領域を脅かす危険信号」なので、徹底的にやり返すか距離を取る。業務が成り立たなくなろうとも、環境が調整されるまで職務放棄するくらい、自分の中では必死だった
- 嫌だと感じていることを我慢して相手に付き合ってしまうと、自分の健康を害し、生活が破綻する
- → 「自分が嫌だと感じたこと」は、言語化・論理的な説明をスキップしていいくらい「正しくて最優先して守るべき事項」と捉え、「嫌なことはやらない・徹底的に逃げる・追いかけてくるなら力付くででもやり返す」という意志になった
- → 「面倒臭いと感じたこと」も、全て自分のためにならない不快なモノ、逃げるべきストレスとして捉えてしまうようになった
- 自分には子供がいる。子供に苦労させず、健康で幸せに成長させなくてはならない。公正証書も自分の意志で書いたのだし、この責任は全うせねばならない
- → 子供が成人する「2040年頃までクローズできないチケット」を抱え続けている感覚
「今までの自分は感情というモノを軽視して効率や正しさばかり見ていた」「自分の感情を大事にしていなかったから酷い目に遭った」→「これからは自分の感情に従うことで自分を守るんだ、それこそが俺にとっての正しいことだ」という思考へと変化した。
仕事についても、それ以前から技術面への興味を失ってきていたこともあり、「どうせ同じことの繰り返しだ」「人は正しさだけでは動かない」ということが強い諦観となり、何をすることも無意味だ、価値がない、俺がやらなくていいだろ、何もやりたくない、となっていった。元々は適応障害寄りなストレス反応だったであろうモノが慢性化して、うつ病傾向、意欲低下、アンヘドニア (喜びを感じにくくなる症状) が強くなっていったと思う。
一人暮らし・在宅勤務歴が長くなり、抗うつ剤とともに血圧降下剤も服用し始め、身体的な眠気・倦怠感も重なって、「何をやるのも面倒」だから「やらねばならないことは徹底的に省力化したい」という効率化・最適化欲も強くなった。
そうこうしていたら昨年2025年に大きく体調を崩し、二度目の休職に至る。何もしたくないし、実際何もできない。子供への責任が上手く果たせない自分にはイライラする。
でも休職によって、仕事という嫌なことからは逃げられた。休職可能な期限には上限があるのに、傷病手当金をもらって一応生活ができていたことで、「感じていた不快感が大きく減った」→「これからも不快感は回避したい」という負の強化が進んでしまった。
復職を目前に強い抵抗感
いつまでも休職していられないので復職に向けて動き始めたが、物凄く強い抵抗感があった。「まずは任意のカフェやコワーキングスペースに行って、模擬通勤してみましょう」という程度のタスクなのに、身体が震えるほどの緊張と抵抗感。「どうしてもやりたくない」「変化することそのものが怖い」という感覚。別にリアルタイムに誰かに監視されているワケでもないので、辛かったら途中で帰ったりしてもいいのに、ベッドから起き上がり玄関のドアを開けるまでが死ぬほどキツイ。
カフェに着いてからも、「何をすればいいんだ、何もしたくないんだが」「嫌だからといってココで帰ってしまうようなダメ人間が復職など出来るのだろうか」「帰ったところでやりたいこともないのになぜ帰りたいのか」「ココで復職できなかったら子供に養育費が払えなくなる危機なんだがそれでも俺は動けないのか?」など考えが止まらず、とにかく緊張していた。身体的にもノート PC での作業が姿勢に合わず、首・肩・腰をすぐ痛めてしまい、余計にやりたくなくなる。模擬通勤を続けても何も良くなる希望が抱けないし、今日は何とか模擬通勤ができても、いつかどこかで自分が要求水準に答えられなくなりクビになり、子供への責任が果たせなくなる、その頃には自分自身ももっとボロボロになっているはずだ、破滅する以外の未来が見えない、というような気持ちだった。
ACT という考え方を知る
ChatGPT Plus に課金し始めたこともあり、ひたすら壁打ちしていた。何かがメチャクチャ怖い、変わらないとマズイのに変わりたくない思いもあるし上手く変わることもできない、そんなことをずっと書いていた。
その中で、ACT (アクセプタンス & コミットメント・セラピー) という考え方を知る。学術的なことや正確な方法論については「ハピネス・トラップ」という書籍を読んでいる最中なのだが、ChatGPT から今の自分にとって効果的な考え方をいくつか学べた。
- 自分が思ったこと・感じたことを、そのまま受け入れる
- 「通勤訓練が嫌だ」と思ったら、「あ、今自分は、『通勤訓練が嫌だ』と感じているな。へぇ、そうなんだね」と言い直す。「脱フュージョン」という俯瞰視点を持つ練習
- ココで「嫌だと思ってはいけない」とか「面倒臭がっている自分はダメな奴だ」などという評価・判定を行わない。「そう思ったんだね」で終わらせる
- 「で、次は?」と考える
- 「嫌だと感じているのは分かった。で、次は?」「やる?やらない?結論を出すのを保留する?」と考える
- 感情と判断を分ける。「嫌だから、やらない」と自動的に結びつけず、一旦分ける
- 「嫌だと感じたが、やる」が出来れば良いし、「嫌だと感じた、そして、やらないことにした」でも、いちいち自分を否定しない。別けて処理することだけ行い、評価をしない
仕事が嫌いなクセに、効率的に処理したいがためにずっと仕事のことを考えて息が詰まっていた自分は、以下のように適用した。
- 業務時間外に仕事のことを考えてしまった時も、「仕事のことを考えているな」とだけ考える
- 「仕事のことをずっと考えないようにしよう」とか、「考えてはいけない」と念じると、自動的に考えてしまった瞬間に「失敗」になるので、そういう考え方はしない
- 仕事のことを考え始めたら、「あ、今自分は、仕事中じゃないのに仕事のことを考えているな」という脱フュージョンを一度自覚する
- 「これを考えることで、今何か具体的な行動が取れるかどうか」を問い、今出来ることがないなら考えるのを止める
もう少しコレを拡大していって、自分の完璧主義や「正しさ重視」な思考によって自分の首を絞めていたところを和らげるよう考えてみた。
- 自分の中で勝手に責任範囲や要求水準を上げない
- 自分が上手くできないこと、失敗することを前提とする
- 「昔はできたはずなのに」などと思っても、昔と今は違うんだから仕方ない
- 仕事には、好きな理由は要らない : 「生活費のため」で十分。「好きなことを仕事にできているか」「好きなこととは何だろう」を考えすぎない
- 「好きなことを仕事にする」「好きだからこの仕事を選んだ」という考え方は、仕事の選び方に「正解」が存在するかのように錯覚させるが、そんな一貫性がなくても働くことはできる
子供のことについても、責任を放棄するとか無責任になるとかいうことではなく、「今出来ること」と「人生の課題」を切り離し、「チケット管理思考」を止めるように考えてみた。
- 今、私は「2040年までの人生の課題」を解決 (クローズ) しようとして思考している。でも、2026年の現在、その答えを出す必要はない
- 将来困る可能性はある。それでも、今この瞬間に何かを決断する必要はない。今日この時点で、未来永劫なにかを確定させるべきことはない
- 「不安があること」と「今すぐ何かしなければならないこと」は別けて考える
- 心配することは、問題を解決することではない。不安を繰り返しているだけなら、それをやめても問題はない。心配するだけで問題を解決できるワケではない
- 人生の課題は、クローズしなくても正常 : 健康・収入・子育ては「完了するタスク」じゃない。未完了は異常ではなく通常の状態
- 未完了なタスクがあることを恐れない。人生にはクローズできないチケットがあり、仕事上のチケット管理のようにはいかない
- 「最悪の可能性」は、「最も可能性が高い結末」とは違う : 悲観的なシナリオを一つ想像しただけであり、確定した予定ではない。自分なんかに、将来の無数の分岐の確率を正確に計算することはできていないはず
通勤訓練が嫌だ、復職するのが怖い。それらの課題を受け入れられない自分。それらも「何とかせねば」と考える対象から外してしまう。
「無感情になろう」というのもちょっと違う。いちいち評価・判断・審議をしないで、ダメだと思っても責めたりしないで、そのまま受容すること。「Just Do It」なんて根性論みたいで嫌いだったけど、それを「理屈がないと納得できない人間」向けに体系化してくれたのが ACT というモノだと気付いた。つまり、「嫌だ、怖い、といった感情は分かった。その上で、今何をすることにしようか」と切り分けて考えることで、少しずつ「嫌だと思ったけど、まぁしゃーない、やるか」という風に行動できるようになっていくワケだ。外から見れば「面倒事でもサッサと着手している」ように見えるが、内心は何も解決していない。むしろ「何も解消していなくても、それとは関係なく動くこともできる」ということを自分に教え込むためのメソッドだと言えそうだ。
こうしたことを考えていく内に、「1年後とかって何も分からんよな、じゃあ想像するだけ無駄じゃね?」というように、取り越し苦労をしないようになってきた。
- 2020年って数ヶ月でみんなマスクして在宅勤務になったけど、あれから5・6年で満員電車は完全に元に戻った
- 2022年頃はまだまだ「機械と日常会話ができそう」程度だった AI が、2025年頃から急に「仕事で使いこなせないとヤバイ」というモノになった。半年も経つとノウハウがガラッと変わる世界になった
- そもそも「インターネットで調べながらコードを書く」というスタイルでプログラマという仕事ができていたのは、たかだかこの20年間程度の話
- IT 業界に限らず、仕事というのは「未来」というデータのないモノに向き合うこと
自分の生来の性格についても、ACT を通じて見直してみた。
- 「何でもできる、失敗しない人」ではなく、「知らないことや失敗をしても、必要な対応をできる人」を目指すようにする
- 予め調査して計画を立てきることは不可能
- 嫌悪感を消すことを、次に進むための必須条件にはしない。感情的に納得できないままでも、現実を前提に行動することはできる
- 一瞬イラッとしてもそれに左右されず動くこと、をまず目指す。「また一瞬イラッとしてしまった」と失敗と捉え、いちいち自分自身とも対立しないこと
- 「チケットを切ろうとしてしまう癖を直す」というチケットを作らなくていいし、チケットを切らないで過ごせたかどうかのチェックも要らない
- 仏教の「悟り」も、「感情が発生しないこと」のみを指していない。「捨 (ウペッカー)」=「平静さ」は「感情が発生してもそれに苦しまないこと」を指す
- 「どうしてどうして」ばかりではなく、「ではこの現実の中で何ができるのか」に切り替えること
- 感情は「無条件に従う」でも「完全無視する」でもなく、「参考情報の一つとして扱う」
- 技術的な正しさも、会社のルールも、自分の体調も、現実に存在する制約条件として扱う。そのうえで、できるだけ自分にとって無理の少ない解を探す
- 「なぜ緊張している?気楽にしていていいはずなのに!」という思いすらも、「緊張せず気楽にできるはず」という期待をしている。これすら脇に置いて良い
- 緊張する理由を調べたり、緊張を解除しようともしなくていい。緊張を自覚して終わり、でいい
- 心配や予測が働いたら、現実との差を確認する。不安が残っていても、予定どおりの行動のみ行う
任天堂の岩田社長も、インタビューでこうしたことに近いことを言っていた。
社長になりたての頃とかは,「なんでみんなロジックで説明できないことをやるんだろう? どう考えてもおかしいよ!」と疑問だらけだったんですね。ただ,いくらおかしいと思っても,他人の脳みそには手を突っ込めないので,一度,「そういうものか」と受け入れる必要があって。
どう思ったか、それはそれで受け入れるとして、それを前提に次何をするか、については別けて考える。
ついでに言えば、他人の脳ミソを直接変えられないのと同じように、自分の感情の回路も、意思の力だけで書き換えることは難しい。自分の思考が思いどおりに矯正できないことまで、いったん「そういうものか」と扱ってみることが効果的だと思う。
脳の仕組みとバイアスを意識する
- 感情の中でも、「快楽系」と「脅威検知系」は同じようには働かない。楽しさや意欲は落ちても、不安や怒りは強く湧く、という非対称性は自然なこと
- 創造的絶望 : これまで問題解決に使ってきた方法がうまく機能しないと気付くこと
- 努力コストへの感受性 : 目標達成のために労力を払うことをどれだけ許容できるか、という天秤の傾きやすさ
- 僕の場合、元々あらゆることに対して「努力コスト」を高く見積もりやすい傾向があるようで、ちょっとしたことでも「超めんどくさいこと」と感じやすく、だから「面倒なことは回避したい」思いが強かったと思われる
- 現在バイアス : 将来の利益よりも目先の快適さを優先してしまう
- 「散歩やジョギングを毎日した方がいい」と言われて、理屈では分かっていても動けないのは、そういうもん
- 心理的リアクタンス : 制限に対する反発感情
- 「復職することで自由時間が減る」ということだけでとにかく反発意識が生まれてしまっている。そういう反応が出てしまうことはしょうがない
うつ病と長い休職によって、自分は認知機能の低下も感じているところがある。以前ほど、ビジネス文書を読み下して理解したりするのが苦手になった。読むのに時間がかかったり、読み間違い、誤解が多い。
コレはどうしても最初、「こんな能力じゃ会社の要求水準について行けないかも」「周りに迷惑をかけてしまうかも」と不安に思ってしまうが、まぁそうだとしても、周りに迷惑をかけながら、失敗を繰り返しながら、やってくしかないよね。
最初の抵抗感や嫌悪感自体は、ACT の「脱フュージョン」という考え方だけでは取り除きにくい。ACT は「嫌悪感や抵抗感があっても、それと行動は別けて考える」訓練なので。だから嫌悪感そのものを弱くするには、反復経験や習慣化しかない。
反復経験や習慣化をしていく時の最初の障壁が「嫌だからやりたくない」といって行動に移せないところだと思うので、そこに ACT を適用して「嫌なんだね、分かるよ。で、どうする?やる?」と問い直すことで、実行回数を増やし、経験値をちょっとずつ積んでいく。「やっぱりやりたくない!できない!」となっても、「うん、そうなんだね」と受容し、「ダメ人間め!!」などと評価をしない。自分が未来永劫この状態とは決まっていないので、これを淡々と繰り返すしかない。
何回繰り返せば嫌悪感を抱くことなく行動できるように変われるのかは分からない。一生嫌悪感は消えないかもしれない。それでも、ACT は「嫌悪感の有無とは関係なく、やる (やらないを選択しても良い)」と捉えさせてくれる。
さっきも書いたが「仏教の悟り」って「何も感じないこと」ではなく「何が起きても動揺しないこと」らしいし、「Just Do It」だって「とにかくやれ!」というのは「抵抗感があるのは分かったけど、やるかやらないかはそれとは別の話だろ?」という話とも取れる。ヨガやマインドフルネスが「今に集中する」とかいって深呼吸してて「ハァ?雑念消えねえんだが?」と思ってたけど、「雑念を消そう」としなくていい、「雑念があるのは分かったけど、今は呼吸に集中してみよう (そしたらちょっとリラックスできるかもしれないから)」という話なのだろう。
多くの人が昔から同じことを言っていたのだろうが、ACT はもう少し認知行動療法として体系的で、理屈っぽく説明してくれて、こういう言われ方の方が馴染む人もいると思う。
面倒なタスクでもササッと取り組める人がいて、羨ましいな~と思ってた。でもそういう人の内面はどうだったか分からない。
- 面倒臭いと感じた大きさが小さくて、「別に面倒臭くはないこと」として素直に行動できる人 (好みとのマッチ次第でこういう場合もあるよね)
- 面倒臭いと感じる前に、習慣で反射的に行動できる人 (運動部出身とかはこのタイプで訓練済みってことなのかな?)
- 面倒臭いと感じても、それを重要視しないで行動できる人 (!?)
- 行動後の満足度を高く見積もったため、着手への抵抗が相対的に小さく行動できる人 (利益に魅力を感じたから計算で動くこともあるよね)
ACT の場合は、この「3.」を狙って自分の思考回路を調整していくアプローチにあたると思う。「面倒臭そう!ダルい!」と感じたことを、「行動するか、しないか」に直結させない → 最初の感情を重要視しすぎない、ということだろう。外から見ていたら、「サッサと行動できる人」がどのタイプなのかはなかなか判断がつかない。そして本人に「なぜやれるのか」と聞いてみても、答えがダブることが多いから区別がつかないのだ。
- 「面倒臭いかな?やればよくない?やるとこういう効果もあるし」(「1.」かもしれないし「4.」かもしれない)
- 「まぁ面倒臭いかもしれないけどさ、やるしかなくない?いちいち考えても仕方ないでしょ」(「2.」かもしれないし「3.」かもしれない)
だから、他の人はなぜ成功しているのかを正確にトレースしようとすることも止めること。自分に合うやり方は、ACT のように「面倒臭いけど、やる」という処理の仕方かもしれない。「最初から面倒臭いと感じないこと」を目指したいものの、そうなれなくたっていいんだ、と思うこと。
動き始められなくて困ってる人は、試してみて
僕の生来の性格、後天的に強化された思想が、今の僕自身を苦しめて動けなくする仕組みになっていた。
これを少し解消して、
- 「しゃーない、めっちゃ嫌なのは嫌だけど、通勤訓練行くしかねぇか」と行動に移せるようになったり
- 四六時中何かを心配したり不安に感じたりモヤモヤしたりすることを止めて、「今これ考えて行動に移せることあるかな?なさそう、じゃあこれは今考えなくていいね」と思えるようになったり
- 「何か起きたらどうしよう!?って心配してもさぁ、何が起きるかも分からないし、起きてからどうするか考えるしかなくない?」と、ポジティブな方向性で諦めがついたり開き直れたりするようになったり
という改善傾向にむかえるようになってきた。
もちろん、最初の「うわっ、やだなー!」はまだ消えない。気が付いたらあらぬ心配まで繰り広げてる時もある。でもそれに気付いて、「嫌だよなー分かるー、んで、次は?やるのやんないの?」とか「待って、今これ考える必要ある?」とか立ち止まって思考を整理して落ち着けるようになったので、だいぶマシになっている。
これから先、マジで人生どうなるか何も分からない。多分、一生自分の人生が「保証」されることなんてないと思う。買ってもいない宝くじが10億円くらい当たったとしたら何か変わるかもしれないけど、万事解決じゃないだろうし、別の問題が起きるかもしれない。結局その場その場で次どうするかを考えるしかないのだ。残念ながらこれ、僕の大嫌いだった「アジャイル」なんだよな。人生ってアジャイルだったんだ。だっる。w
「計画どおりにこなせると気持ちが良い」「書類が揃っていると気持ちが良い」「ポケモン図鑑が揃うと嬉しい」といった、自分の好みを手放す必要はない。でも、これを死守しようとして現実とぶつからなくてもいい。そういう、「100% どちらかであろうとする」こと、白黒思考を止めること、「どちらでもない時もあるし、どちらでもある時もある、それでもいい」という柔軟性を得るきっかけになったと思う。