合理主義こじらせて何もできない
この1年くらい似たようなことをあれこれ書いてる気がするけど、書く。
僕は元々几帳面で神経質な性格だった。合理主義的な思考が強いところも元々あった。
エンジニア業に就くと、開発案件は大抵積み上げ方式でスケジュールを見積っていくので、「今日やるべきこと」と「いつ最終到達点 (リリース日) に辿り着くのか」がハッキリしている状態で仕事をするのが通常だ。進捗は全て定量的な数字で管理するので、どれくらい効率が良いかというのが数字で確認できる世界だ。
こうして白黒ハッキリついて何でも定量化される世界は、自分の性にも合っているので、仕事をする上では何も問題ない。
しかし、例えばダイエットだとか「楽器の演奏スキルを上達させたい」といった分野だと、こういう積み上げ式の見積もりが上手く行かなかったりする。
何キロ痩せたいとかいう最終目標は何らか立てられたとして、今日1日については、どこまで行けば良しとするのか?というのが見えない。コレが物凄くストレスだ。「100回の腹筋で必ず 100g 痩せます」と決まっているワケでもなければ、日によっては前日より体重が微増している日だってあるだろう。それじゃあ、「今日の作業は目標到達に向かえているのかどうか」を、日々どうやって計測したらいいのだろう? そう思ってしまうワケである。
定量化できない物事がこの上なく苦手である。ダイエットだって楽器の演奏だって「日々の積み重ね」でしか達成しないのは分かってはいるけど、今日1日でどんな成果が出たのか?がハッキリしないことに耐えられないのだ。
合理主義というのは、少ない労力や投資で、確実かつ高い成果や利益を求めがちである。合理的に考えようとする自分は、ココでおかしな合理性を持ち出す。つまり「定量的な予測が立てられないなら、やるだけ無駄になるかもしれない、そんな不確実なら、何もしないで止めておこう」という発想だ。
一切着手しないから、ゴールになど当然辿り着かない。でも、日々の進捗がハッキリしない物事だから、やる気にもならない。そういう思考がループしてしまうのだ。
趣味の領域だとさらに、「やったところでお金にならない・むしろ消費するばかりだ」「そんなことよりお金になることをしよう」とか考えてしまったりする。お金になると思って始めたら酷い目に遭ってココナラ止めた経験もあるというのに、そういう変に利益や確実性を求める性格は変わらず、それによって何一つやらない・やれないままでいる感じがする。
親父と話していて、「散歩中にベンチに座って、ボーッと15分くらい座っていられるか?」という話になった。僕はそういうことが全くできない。
ガラガラのマクドナルドで食事していたとしても、食べ終わったら即座に席を立ち上がりたくなる。しかもそれが「歩き疲れていて少し休みたいな」という状況でもダメで、「食べる」という用事が終わった後に「何をするでもなくじっとしている」ことができず、立ち上がりたくなるのだ。スタバでパソコン開いて作業なんてもっての他。そもそも作業は家でやった方が効率良いし、話し相手もいないのに一人であんな落ち着かないところに10分も20分も居たくない、と思ってしまう。
一方、母親は「ベンチでボーッとするなんて何時間でもできるよ」と言う。退屈にならないか、何かしたくならないのか、と聞いても「別に」という感じで、なかなか自分の腑に落ちる意見が得られなかった。w
でも、どちらが生きやすいだろうかと思うと、僕と親父は生きづらい性格をしていると思う。母親の話を聞いて「穏やかに過ごしていて羨ましいなぁ~」と思うものの、じゃあ頑張ってベンチでじっと座っていられるかというと、やっぱりできないのだ。そもそも「頑張ってベンチに座る」と思っている時点で、深層心理ではベンチに座ることを「苦痛なこと」に分類してる節すらある。
こういう自分の癖によって、自分自身が変に縛られていて辛い自覚はある。だから最近は頑張ってそれを打ち破るようにしてみている。
- 今日1日で、今すぐ何かがどうにかならなくてもいい。というか殆どのことは1日じゃどうにもならん
- 何かをやる時に、意味・利益・合理性を判断基準にしない。「面白そうだ」とか「気になる」とかいう感覚を重視する
- 無計画に、無駄なことをあえてやってみる。別に死にやしないんだし、そういうことから意外な経験ができるかもしれない
- キレイそうなベンチがあったら、5分くらいは座ってみて、五感から感じ取れる「今」に集中してみる
こんな風に考えるようにしてみている。
「即効性のある劇的な効果」を狙わない、という話なので、今のところ何ら生活に違いはないのだが、今まで自分が「非効率だ」「無駄だ」と思っていた生き方を取り入れようとしているので、何となく心境の変化はある。
ただ、「こんな非合理的な生き方をしていていいのか」「今すぐにでも成果を出さなければ」という思いが抜けない理由は一つあって、それは愛する我が子の存在だ。
我が子とは離れて暮らし始めて、約1年が経つ。我が子のせいなんかじゃないのに、我が子は片親家庭になり、僕がそばに居られない。我が子はどんな気持ちで日々を過ごしているだろうか。何の状況も分からない。
我が子が今悲しんでいるかもしれないと思ったら、今すぐ何とかしたいと自然に思ってしまう。離れて過ごしている自分に少しでもできることはないだろうか、と思うと、今日も何かをしなくてはと、どうしても思ってしまう。体調が悪くて何もできないと、凄く悔しい思いをする。でも、元気がないので何もできない。
嫌々そう考えているとか、義務感だとか、そういうバカげた話ではない。この気持ちが理解できないサイコパスな人もいるのかもしれないけど、普通の人なら、自分の家族や友人が血を流して倒れていたら「今すぐ何とかしたい」と思うはずだ。我が子は大病もしていないし健康に過ごしているけども、日々の様子の詳細は分からないので、気にはなる。
子供の年齢的に今はまだしも、5年後・10年後・15年後に、成長した我が子はこの家庭環境をどう思うだろうか。僕が好かれる嫌われるとかいう程度の話ではなくて、我が子にとって「実の親を嫌い憎んでいる」なんていう状況になったとしたら、我が子が幸せな状態じゃないと思うので、それは避けたいと思っている。変な話だけど、超極端にいうと、我が子が心から幸せだと言うんだったら、父親である自分のことを嫌うことすら構わないというか、「それで我が子が本気で幸せなら、良かった」と思うぐらい、自分のことなんかどうでもいい。
5歳になった子供がどう思うか、10歳になった時に、15歳に、20歳になった時に、それぞれの時期でどんな風に思うか。10歳くらいまでは問題なくてもそれからグレてしまうかもしれないし、もしかしたら我が子が30歳になった頃に突然親を嫌うような心変わりをするかもしれない。そう思うと、今日1日何かしたことで、未来永劫の問題が全て解決するなんてことはなく、一生かけて取り組むゴールのない問題であることは理解している。でも、それでも、今、今日、本当に何かできないのか?何か一つでも足しになることはないのか? という思いが消えない。何もせずには居られない気持ちになる。
「ダイエットは日々の進捗が見えないなー」とか「楽器のスキルは上達するか分からないもんなー」なんて思いがちだけど、我が子のことに関しては、「不確定なモノだから考えるのを止めよう」などとはどうやっても思えない。どこの家の親でも普通にそう思っているのだろうけど、僕も、常に我が子のことを考えていて、我が子が喜ぶこと・楽しいこと・幸せでいられることをしてやりたいと思い続けている。目の前で毎日我が子を見ていられれば少しは安心したりする部分もあるのかもしれないけど、それができない分、自分の中ではもどかしく焦ってしまい、一刻も早く何か目に見える成果を出したい、とついつい思ってしまいがちなところがある。
「早く効果を出したい」「今日1日の中でも意味のあることをしたい」という考え方が、エンジニア業を通じても養われてしまったことで、日々の進捗が見えづらい問題と向き合うのが極めて苦手になってしまった。コレって一般的には「モチベーションが続かない」っていうのと同義なのかもしれないな。
一日二日じゃ目に見える変化なんかないよ、ってのは重々承知なのに、それが分からないともどかしい。毎日コンスタントに誤差なく 500g ずつ痩せるダイエット法とか存在してほしい。未来が正確に見えて逆算して計画を立てられる装置が発明されてほしい。今すぐ何でもかんでも願いが叶ってほしい。我が子の幸せを確証させたい。全ての解決すべき問題が解決して自分の存在意義が完全に満たされたのを確認して死にたい。
そんなこと叶わないんだよなぁ。31歳にもなってヒドいワガママを言っている。
だから、別に成果がないような無駄も楽しめるようになるよ。一生かけて正解やゴールのない問題にもコツコツ向き合い続けるよ。少しずつ自分を変えていくよ。