まともなひとはだれもいないよ
自分は案外、世間体を気にしている方なのかもしれない。というか、自分が世間体を守ることで、家族に恥をかかせないようにしたい、という思いが強いような気がする。
自分個人としては本気で誰にどう思われてもいいし、嫌われても気にならなかったりする。だけど、自分のみっともない行いによって、親が「おたくのお子さんって不良なのよね」と言われるだとか、我が子が「自分の父親ってこういう人間なんだ…」とガッカリするとか、そういうことは避けたいなと思う。
例えば、タバコを例にしてみる。
自分はタバコを一切吸わない。ヘビースモーカーの人に対して良い気持ちを抱いたことがないので、同じようにはなりたくないという思いが強かったりする。
ただ、物の試しで、1・2回タバコを吸ってみたことはある。ニコチンが作用して少しリラックスするような感覚は、理解できなくもなかった。試しに吸ってみたことで、今まで嫌悪だけだったタバコというものが、「案外リラックスもできるし、タバコ雑談も悪くないのかも…」と、考えが若干良い方向に変わったところもあった。
しかし、この「案外悪くない初体験」によって、もしも自分がタバコにハマっていってしまったら…と思うと、踏み止まる自分もいる。「いつもタバコ臭いオヤジになってしまう」「ニコチンが切れるとイライラするみっともない大人になってしまう」「そんな俺のことを家族は恥ずかしく思うだろう」という風に考える。
僕の家族は誰もタバコを吸わない。タバコに対しては否定的なスタンスだ。そんな家族と同じ考えで育ってきた。だからこそ、自分は何歳になってもタバコを始めたくないし、タバコを好きになりたくない。自分の親に「育て方が間違っていたのだろうか」などと思わせたくはない。
多分、僕に家族が誰もいなかったり、家族とメチャクチャ仲が悪かったりしたら、こうやって踏み止まる自分はいないと思う。「なんだ、ちょっと面白いじゃん、もっとやってみるか」となっていることだろう。自暴自棄というワケではないが、欲望にもっと忠実で、人目を気にせず生活しているダメ人間に落ちぶれていると思う。
そうした「世間体」の他にも、自分自身の中には、一貫性の欠如というモノに対する抵抗感がある。
今まで「臭くて迷惑だ」「みっともない大人がやることだ」と嫌ってきた喫煙というモノに、何かの拍子でハマってしまったら、過去の自分が嫌っていた人間になってしまう。「やっぱりタバコは良いモノだ」という風に考えを改めることができないまま、「タバコは悪いことなのに、止められない」と考えて苦しみながらタバコを吸い続けそうだと思う。
だから僕は、自分の思考に対する一貫性を保つために、一生「タバコは害悪なのだ」と決め付け続けていないといけない。タバコになぞハマってはならない、本来一度も試すべきモノではない、バカがやることだ、という立場・主張を崩すワケにはいかない。「そんなに悪いモンでもないよ」「デメリットもあるけどメリットもあるよ」などと柔和な態度に変化することも許されない。自分の考え方に一貫性がないことが、何よりも違和感になるからだ。
このように、僕は一度決めたことを簡単に変えられない性分なのだ。「考えを改める」ことが苦手だ。公正世界信念を自分自身にも強めに適用している気がする。
もし仮に、僕がタバコにハマってしまったとしたら。
僕は家族にダメ人間だと思わせないように、趣味を隠し通さないといけない。でも、僕の性格上、隠し事やウソは下手だし、察しの利く家族が多いので、隠し事はすぐにバレてしまいそうな気がする。
21年もこうやってウェブサイトに自分のことを綴ってきて、自分の全てを全世界に公開するのが当たり前になっている。全てが見られているのだから、自分に裏表などあってはいけない。勝手にやっていることなのだが、こうやって自分を拘束している気もしてくる。
とにかく、そう思うと、やっぱり僕はタバコなどという「悪癖」を持つべきではない。そんなモノとは一生無関係な生き方をしなければならない。
さて、じゃあタバコを除外したら、自分のストレスや欲求不満を何で解消しようか。何だったら周りに健全そうに見えるだろうか。お酒はダメだろうな。お菓子の食べ過ぎやコーヒーの飲み過ぎも良いモノではない。何を自分の楽しみにしようか。まともそうな趣味を探さねばならない。身の回りの人に恥ずかしく思われないように。
…はて。「まとも」とは何だろうか。どういう人がまともなのだろうか。段々分からなくなってきた。
僕の家族はみんなロールモデルだと思っているので、家族の趣味と違うことはしづらい。でも僕は、家族が聞かないような音楽も好きだったりするし、家族の中で僕だけが好きな変わった映画もあったりする。
僕は既に、まともではないのだろうか?まともではいられないのだろうか?
あるところで、「まともなひとは、だれもいないよ」という言葉を聞いた。
…じゃあ、僕の家族もまともではないのだろうか??
もう一度、客観的に自分の家族をよく見直してみる。
僕の父は、幼少期になかなかのイタズラをしてきた悪ガキな一面もあったらしい。ずっと健康だったかというとそうでもなく、病気した経験もあるし、それなりに波乱万丈の人生を歩んできている。
僕の母は、そういえば、お笑い番組で笑うポイントが家族で唯一ズレている。「そこがそんなに面白かったのか…」と困惑する時がある。波乱万丈な父の隣にずっといた、という意味では父と同じように悪路を突き進んできたのかもしれない。
僕の親戚には、マイノリティな派閥の人、マイナーな職業の人もいる。世代の違いも大きいかもしれないが、祖母の言うことは時に現代の世間とのズレが大きいこともある。
でも、自分が長らく間近で見てきた家族のことだから、それらはそこまでおかしなことじゃないと思っていた。人それぞれ、それくらいの性格・趣味趣向の違いはあるモノだろうと思っていた。
先程、「お酒はダメだろうな」と書いたが、家族みんな、お祝いごとがあれば嗜む程度にはお酒を飲む。人によって好みのビールの銘柄があったりもする。じゃあお酒を趣味にするのは悪くないのかもしれない?勿論、何事も度が過ぎれば良くないのはそうなのだが、もしかしたら「嗜む程度のお酒」が趣味なら、家族は何とも思わないかもしれない。
家族の中に「クルマ好き」は居るが、「電車好き」はいない。そこでもし僕が電車好きになったら、僕はまともではなくなるのだろうか?犯罪でも何でもない、誰にも迷惑をかけていないのだから、個人の趣味として流してもらえるかもしれない。
じゃあタバコは本当にダメだろうか?恥ずべき・隠すべき行いになるのだろうか?
…段々と「まとも」の境界線が揺らいでくる。
誰も「完璧なまとも」ではないのだ。だけど、何となく「まともな領域」があるような気がしている。各々が「まともだと思う範囲」を持っていて、それは少しずつズレているのだろう。
何なら許されるのだろうか。どこまでなら肯定されるのだろうか。それはどうして逸脱しているように思うのだろうか。何が悪いことなのだろうか。
わざわざ親を心配させたり、困らせたりするようなことはしたくない。両親が僕にとってのロールモデルだったように、我が子にも僕をロールモデルにしてもらえるようにしていたい。自分の主義主張には一貫性があって、矛盾を抱えていない人間だと思われたい。
けれど、そうした僕の個人的な思いが多くの制約事項を生んで、自分で勝手に選択肢を減らして人生をつまらなくしている気もする。どうしたものか。