映画「ひゃくえむ。」を観た … ネタバレあらすじ・感想

弟が「ぜひ『ひゃくえむ。』という映画を観た方が良い」というので、家族全員で揃って鑑賞会を開いた。2025年公開のアニメ映画で、2026年現在は Netflix にて配信中。

ネタバレあらすじ

主人公「トガシ」は生まれつき足が速い小学6年生。転校してきた「小宮」は、辛い現実から逃避するために近所を走り回っていた。気になったトガシは「この世は100メートル走が一番速ければ全てが解決する」と説く。トガシのコーチングにより、がむしゃらに走っていただけの小宮はグングン成長する。ある日小宮は「トガシ君と勝負してみたい」と言い、二人は河川敷で 100m 走を勝負する。その翌日、小宮は転校していったのだった。

高校生になったトガシは、周囲の期待からくるプレッシャーで、陸上を辞めようとしていた。しかし廃部寸前だった陸上部と出会い、走る楽しさを改めて実感。怪我により引きこもっていたかつての先輩も説得して陸上部を結成。無名校ながら大会で成果を残す。一方の小宮は、怪我に伴うイップスで不調となっていたが、先輩からの言葉で覚醒し、ついにトガシと大会でぶつかる。そして小宮はトガシをブチ切り、トガシの頭は真っ白になる。

10年後。実業団で活躍していたものの成績は振るわず、契約更新もギリギリな状況で食いつなぐトガシ。同世代のライバルの存在により「万年2位」とまで揶揄されていた先輩は不思議と自信に満ちあふれており、トガシはその心境を訊ねる。肉離れで選手生命が絶たれる危機に立たされるが、それでも走りたいと気付いたトガシは怪我を押して大会に参加。10年越しに小宮と再会し対決する、その結果は__。

感想

当方は原作未鑑賞。マンガ原作で、最近話題らしい「チ。地球の運動について」の作者でもある魚豊 (うおと) 氏が原作。予備知識なしに映画だけ観た感想を語るので、原作で語られていることなどあって話がズレていたらスマソ。

それぞれの人生にある「走る意味」

トガシは生まれつきたまたま足が速かったことで、周囲からの評価を得て自分の居場所を確立できていた。自然に得ていた天性の才能だが、「誰よりも足が速い」以外に何も持っておらず、それを失うことへの恐怖も同時に抱えているようだった。「コンディションが悪いらしい」というウワサを自分で流して陸上に参加しないでいた中高時代、そして「応援してくれる人のために走ろうと思う」と答えていた社会人時代それぞれに、トガシなりの保身、正当化しようとしている部分が垣間見える。

「怪我で引退したって、コーチとしての生き方も出来る」「走ることだけにそんなにこだわらなくても良いのだ」などと言ってみるが、涙はボロボロとこぼれ落ちる。劇中「悔しさ」に関する明言はされないが、相当に悔しいであろうことが見て取れる。誰かに抜かされる悔しさというよりも、自分自身に納得して自分に打ち勝てなかった悔しさなのだろうと思われる。

小宮は、劇中で語られないが恐らくはイジメ?もしくは複雑な家庭環境が辛く、その現実から逃避するため走り回っていた。そのうち目標は「日本記録を残すこと」にシフトし、勝負で誰かに勝つ・負けるといったことそのものにこだわらなかったことで、誰よりも速くなっていた。

小宮の先輩であり日本記録保持者として君臨していた「財津」。そして財津に阻まれて「万年2位」と呼ばれていた、トガシの先輩「海棠」。小宮は終盤、財津と海棠とともに試合に出るが、海棠は「財津に負け続ける現実を直視してもなお、俺は俺を信じている。財津に負けているこの『現実』など、逃避してやる」と語り、そこでついに海棠は二人をちぎる。記録に囚われていた小宮は、記録に囚われない海棠にちぎられたことに困惑する。

そこでトガシは小宮に、小学校時代伝えた「誰よりも速いことが全てを解決する」という言葉を改めて伝える。他の走者に、あのライバルに、そして自分自身に打ち勝ち、「誰よりも速い」というその地位・肩書き・現実が欲しい。なぜなら走ることが好きだからであり、そこには家族も友人も、仕事も将来も関係ない。「今この瞬間に」「誰よりも速いこと」を欲しているから、全力 (ガチ) でそれを取りに行く。トガシと小宮はその境地に達し、ゴールラインを切るその瞬間、笑顔があふれるのであった。

ロトスコープと「アニメ的誇張」の対比

本作は小学校時代・高校時代・社会人時代と、大きく3つの時代が描かれる。

小学校時代のトガシと小宮は、きっかけは違えど走る楽しさに取り憑かれており、「なにくそ!誰にも負けてたまるか!」と奮起する瞬間は顔が歪み、アニメならではのブレ感の描写でその速さ・勢いが描写されている。

それが高校時代になると、途端に絵柄は落ち着き、恐らく実写映像をトレースするような形でアニメ化される「ロトスコープ」の手法を多用してシーンが描かれている。何気ない登下校シーンから、小宮との大会での対決での長回しワンカットに至るまで、実写さながらの絵柄で徹底的に写実的に描かれている。この高校時代に唯一アニメらしい描写があるのは、トガシが陸上部女子に「走りを見せてほしい」とせがまれ、一人で一本だけ走った時に「走りの楽しさ」を再び感じた瞬間と、小宮に敗北し豪雨に打たれる中盤ラストのカットぐらいだったと思う。

社会人時代になっても、実業団の担当にヘコヘコしているトガシ、そして怪我による引退がチラついて号泣するトガシまで、アニメらしい誇張された描写は出てこず、「実写の生身の人間による等身大の動き」がそのままアニメ化されているような描写を受ける。

しかし、「負け続けている現実から逃避する」と決意した海棠が、ライバルの財津をちぎるシーンなどから、再び「アニメらしい誇張された描写」が出てくる。ラストに勝負するトガシと小宮の顔は歪み、眼をひん剥いて全力疾走する。

このような描き分けによる対比が実に面白い。周囲からの期待が~、生活がかかっているから~、といった「現実」に直面している瞬間は、トガシも小宮も、その他モブの選手も、等しく「等身大」で描かれる。主人公らしく目立つ描かれ方もしないし、速さや強さを誇張する描写もない。現実を直視し、現実にぶつかって思い悩んでいるからだ。

一方、アニメでしかできないような極端な誇張表現が登場する小学校時代やラストシーンなどは、単に迫力を出すための演出というワケではなく、生きる時代や年齢、社会生活や責任といったしがらみから全て解き放たれ、「今走ること」だけにフォーカスしていることの表れだと思う。これこそが「今この瞬間」を表現しているといえるかもしれないし、もしくは逆に「過去・現在・未来などの概念を超越した境地」とも捉えられるかもしれない。いずれにせよ、「誰よりも速く走りたい」「走るって楽しいな」という根源的な欲求にのみ従い、全身全霊をそこに委ねていることが、アニメならではの描き方で表現されていて、実写作品にはしなかった、アニメ作品である効果がとてもよく表れていたと思う。

映画「セッション」とは異なる「狂気」

この作品を観て途中からよぎっていたのは、2014年の映画「Whiplash セッション」である。

映画「セッション」は、ドラマーを目指す主人公が音楽・ドラムに取り憑かれ、鬼教師の凶暴さをも超越する「狂気」を顕わにし、そこがどんなコンサート会場なのか、何の演目が予定されていたかなどの「現実」を完全無視して、ドラムへの情熱を1曲にぶつける。

本作「ひゃくえむ。」も、100メートル走に情熱を注ぎ込む選手達が、「怪我したら明日からどうしよう」などといった悩みを振り切り、「今この1本が誰よりも速いこと」だけに全力で向き合う。

どちらにも現実的な社会生活に対する不安などを無視する、狂気的な情熱が垣間見えるが、セッションは「Madness (熱狂・狂気)」、喜怒哀楽でいえば「怒り」に近い感情からの「至高の瞬間」への境地が描かれていた。一方「ひゃくえむ。」は笑顔で終わることからも分かるように、理由なんか分からないし関係ないけど、とにかく走ることが楽しい・好きだ、という「Happiness (幸福・喜び)」が伴う昇華として描かれていると感じた。

観たら走りたくなる爽やかな映画

映画の尺に収める関係か、それとも「イジメ」の描写がセンシティブな時代になったのか、小宮が何から逃避したかったのかという具体的な原因が描かれなかったりとか、

もう言語化しなくても十分に伝わっているのに、少々説明がくどいなと感じるところもあったが、コレも現代の日本人向けに「分かりやすい答え」を提示してあげることにした意図的な演出なのかは分からないけど、

そうしたちょっとした気になる点は払拭できるくらいに、情熱的で、爽やかな青春を見せつけられ、自分だって、今からだって、根源的な喜びや欲求に素直になっても良いのだと思わせてくれる、とても良い映画だった。