僕が個人サイトを続ける理由

知人ととある話題で盛り上がったので、僕がこのサイトを続けている理由を振り返ってみて、そこから何かが見つからないかなーと思い、思考整理のために書き殴ってみる。

目次

なぜホームページを作り始めたのか

僕が「いつ」ホームページを作り始めたか、という話は以前も書いた。

では、「なぜ」ホームページを作りたいと思ったのか、というキッカケだが、コレもハッキリ覚えている。ひめニャース (ひめはじめ) さんの「ポケモン大好きクラブ」というサイトを見て、自分もコレを真似してみたいと思ったからである。他にも「おバカサイトだ!じむりん家」というサイトにあった面白画像に感化されてイラストを描いたり、「Outside」を真似した Flash アニメを作ってホームページに載せたりしていた。

ホームページを作ったことがない人に、この「何かに憧れてハマり始める感覚」を伝えるには、ファッションが好きになる感覚が近いのではないかと思う。憧れの俳優やアイドルの服装を見て、同じブランドの服を買ってみるとか、似たようなファッションを真似して自分に取り入れてみる、といった感覚だ。

もう少し、なぜなぜ分析をしてみる。「憧れたからといって、なぜ自分も真似してサイトを作ってみたいと思ったのか」。コレが自分の中でうまく表現できず、難しかった。

調べたところ、こうした「憧れの人を真似したい」という感覚は、心理学的には取り入れ・同一視などというらしい。特に子供のうちは、早く成長したいという願望が根源的にあり、その願いが叶わないのではないかという葛藤を紛らわせるために、親だったり周りの大人だったり、そうした憧れの対象の要素を自分に取り入れて、その人になりきる、という心理のようだ。素の自分には自信がない、それをコンプレックスのように感じている。そんな時に面白そうなことをしている人を見つけたので、自分もそこまで登ってみたいと思う、というワケだ。

以前も記事にしたが、子供がすぐにやたらと走り回るのは、成長を促す本能的な行動であり、理屈ではないのだそうだ。

「何かに憧れる」「憧れたモノを真似したくなる」という感情も、自己成長のために本能的に湧き上がる欲求といえるようだ。

承認欲求は別になかったと思う

誰かを真似すること、同一視について調べていくと、「周りに認められたい」「承認欲求のために」真似をする、という心理もあるようだ。しかし、そういう表現をされてしまうと、自分は全然しっくりこない

自分は「誰かに認められたい」というような劣等感は不思議と抱いたことがないし、ホームページを作ることによって輪の中心にいる人気者になりたい、といった思いは微塵も抱いたことがなかった。

「ポケ熱同盟」というサイトの掲示板やチャットによく入り浸っていて、自分のサイトにも掲示板を設置した時は、「憧れのサイトと同じように、沢山の人で賑わってくれたらいいな」という思いはあった。だからウェブランキングに登録したり、「ホームページ宣伝掲示板」に宣伝を書き込みまくったりなどしていたが、だからといって「ランキングで1位の人気サイトになりたい」とか「アクセス数がいくらに到達して欲しい」とかいった欲求は、ほぼなかったと思う。あくまで「掲示板が賑わっているような雰囲気」を形式的に真似したいだけであり、自分が管理人としてチヤホヤされたいとか、特別視されたいとか、そういう欲求はまるでなかった。

僕には弟が2人いて、明らかに僕らを溺愛してくれている両親がいて (笑)、祖父母や親戚も多くが近くに住んでいたので、幼少期から家庭は賑やかだった。だから、幼稚園や学校で「友達が少ない」ことで劣等感を抱いたことはほぼなかった。先生に「2人組作って~」と言われた時に困るので、何人か仲の良い駒がいた方がいいな、という不純な動機はあったが、クラスの中心的存在になりやすい、いわゆる「スポーツ系の陽キャグループ」みたいなモノに自分が属しておらず、どちらかというとクラスの端っこで数人でゲームをしている「陰キャグループ」の一員であっても、自分はさほど卑屈には思わなかった。学校は僕の全てではない、僕には帰れる家がある・家族がいると思えていたから、わざわざ学校の中で皆の気を引いて人気を取りに行こうとしなくても、別に満たされていたのだと思う。

この点、もしかしたら「僕が長男である」こともさらに大きな要因なのかもしれない。子供の頃は特に、弟というものは「自分が従えている子分」みたいな感覚も少しあったと思うし、僕が率先して何かをやると真似して付いてきてくれるので、「真似される立場」としての自尊心みたいなモノも、そこで自然と満たされていたのかもしれない。

さて、話を戻そう。ホームページを作ることで、「承認欲求を満たしたい」という思いは、僕の場合なかった。それはなぜかというと、僕には弟や家族が多くいて、無条件に愛されたり、無条件に真似され慕われたりする生活をしてこられたからだと思う。別に友達が少なくて、友達に自分を見てもらえなくても、僕は既に家族に恵まれていたからそれでよかったのだ。

自分にあまり「承認欲求」みたいなモノがなかった理由が、今回なんとなく明確になって嬉しい。w

なぜ個人サイトを続けているのか

憧れから始めたホームページ作成。ポケモン系サイトのウェブランキングでは1位まで行かなくとも上位に食い込む人気サイトになったこともあったし、掲示板にもそれなりに人が来てくれたり、イラストを描いてプレゼントしてくれる閲覧者さんもいてくださった。おかげさまで、「面白いコンテンツでもって賑やかなサイトを作ってみたい」という欲求は、サイト開設から2・3年である程度満たせたところがあると思う。

憧れの対象は日々変わっていった。最初は「ポケモン大好きクラブ」のような、ポケモンの攻略情報や裏技を取り扱うのが楽しかった。「ポケ熱」のような掲示板・チャットが賑わう視聴者参加型コンテンツも始めた。「GAME 大宝庫」「裏技法典」のように、その他のゲームの情報も沢山扱いたくなった。「HTML 小技集」みたいなサイトも見るようになり、「ホームページの作り方」的な教育コンテンツを作って貢献する立場にも立ってみたい、という子供っぽい欲求もあった。コンテンツの一つとして「管理人の面白日記」も定番だったので、話を盛りに盛った黒歴史な日記ページも量産していた。

そうこうしていく内に、コーヒーを飲み始めれば「缶コーヒーの味の感想ページ」を作り、パルクールを始めたら「トリッキング解説ページ」を作る、といった具合に、誰かのサイトを真似して始めたワケではなく、自分の趣味を紹介するだけのページというモノを作り出すようになった。ポケモンの攻略情報からコンテンツを始めたこともあり、自分の性格上、様々な情報を網羅して綺麗にまとめたいという、記録魔的なところが、「ホームページのコンテンツとして書く」行為とマッチしたのだと思う。

そういえば、学校の課題で百人一首を勉強した時は「対象の札を最短で取れる上の句」を表にまとめてみたりだとか、サイトには載せていなかったポケモンの改造コードの情報を、ローカルのメモ帳にビッシリ書いていたりとか、何でもそうやって「情報をまとめて記録すること」そのものが好きな行為だった。元々ちょっと潔癖症で、神経質なくらい几帳面な性格だったこともあるし、カメラ好きの父が家族旅行のたびに写真やビデオを撮っていたことも影響して、自分の生活の全ては記録して形に残すモノなのだ、くらいの、半ば強迫観念めいた何かが常にあった。

表現を変えると、「ホームページ作成を続けてきたことで、情報の電子化・記録の永続化そのこと自体が習慣化した」といえるのかしら。僕の生活や経験したことは全て記録を残したい、という欲求があるので、日記を書き、やたらと写真やビデオを撮り、サイトに載せてまとめてきたのだ。サイトを続けているのは、そうすると落ち着くから、というワケである。

ココもやっぱり自己完結した欲求で、「本棚の本は決まった順番に並べておきたい」ぐらいの話なのだ。几帳面な自分を誰かに見て欲しいとか、何かデータを公開することで称賛を浴びたいとか、そういう「他人の目」は全く気にしていないのである。

数字には興味がないらしい

サイトを作り始めた理由は「憧れ」でありサイトを続けている理由は「元々の性格で記録魔だから」、ということが整理できた。承認欲求は家族の存在のおかげで満たされていたため、僕には孤独感もなく、サイト製作は別に「承認欲求を満たす手段」ではなかったことも再確認できた。

サイトのアクセス数が100万アクセス突破、なんていう数字は、多少の達成感はあったし、嬉しくないワケではなかったけど、その数字のためにやってきたワケではなかったので、割とどうでも良かった。

このサイトには Google AdSense や Amazon アソシエイト、楽天アフィリエイトなどの広告を掲載していて、コレによっておかげさまで毎月多少の収益がある。はてなブログで運営していた頃はさらに調子よくヒットに恵まれていて、充分な成果が出ていた。

これらは「お金」に関わることなので、できれば稼いでオトクな思いをしたい、というのは万人共通の感覚であると思う。だから広告掲載を始めた当初は、アクセス数の傾向を見たり、クリック率を気にしてみたりといったことは一応していた。だけど、すぐにそうした分析は止めてしまった

やっていることがたまたまお金になれば嬉しいな、という思いは多少はあるものの、収益を増やすために徹底分析して PDCA サイクルを回していく、ということに、どうしても興味が湧かなかったのだ。仕事は普通にしていたし、サイトでの稼ぎが死活問題ではなかったこともあり、数字を必死に追いかける必要がなかった、ともいえる。

お金という直接的な利益になるという状況に立ってもなお、僕は数字で示される結果に興味がなかったようだ。何人が僕のサイトを見ているのか、どれくらいの時間見てくれているのか、広告は踏んでくれたのか、そんなことはどうでも良いのである。

閲覧者の温かさは嬉しい・けどファンサービスは出来ない

戦略的にヒットを狙おうとか、うまくバズらせようとか、そういう魂胆がないので、基本的には閲覧者からの反応というモノは受け取る機会がない。それでも別に寂しいとか満たされないとか、そんなことは思わない。

とはいえ、YouTube 動画にコメントを書いてくれる人が時々いたり、メールを送ってくれた人がたまにいたりすると、その温かさに感謝の念は抱く。あなたの気持ちなんて考えていない、僕の個人的な行動が、どうやらたまたま何か琴線に触れたらしく、楽しんでいただけた。それをわざわざ文章にしたためて送ってきて伝えてくれた。テレビでバラエティ番組を見ていて「面白かったです!」なんてハガキ、僕は一度も送ったことないのに、要はそういうありがたいコメントやメールが届くワケで、大変嬉しくなる。何も狙っていなかったけど、多少でも他人に貢献できた、ということは、素直に嬉しいものだ。

先程の「数字」の話でいくと、「1ヶ月で10万 PV!」といった出来事よりも、「1人からメールをもらった」ことの方が、抜群に嬉しいことは嬉しい。「10万 PV」もありがたい話ではあるし、その中には色んな思いの人がいるのだろうけど、やはり可視化されている数字に実感が湧いていないのだろう。そこで、お手間をかけてもらってメールを1通いただくと、アクセス数が月数件だったとしても、全然嬉しいし、やってて良かったんだなぁ~と思える。数字で表せることに対する意味合いや重みが違ってくるんだなと感じる。

…しかし、ココまで書いていて大変申し訳ないのだが、「そんなファンがいてくれるなら!私はあなたがたのために!こんなコンテンツに舵を切ってやっていきます!」といったサービス精神は残念ながら湧いてこない。引き続き僕は自分勝手にやっているので、見たかったら見てもらっていいし、見なくても全然いいです、という、相手からすればドライなスタンスは変わらないのである。

僕のことを見て欲しくてやってきたモノではないので、やはりどうしても「ファンになってもらう方法」なんて分からないし、ファンの心理も、何がファンサービスになって喜ばれるのかも、何も分からない。ありがたい反応をいただいておきながらも、そういうファンサービスを追求しようという気にもならない。ホントにスミマセン。w

自己肯定感は低いままなのかもしれない

「僕を見て欲しい」ワケではないが、「見てます!」と言ってもらえると嬉しい。その一言にすごく価値を感じ、充足感を得る。

家族とは今でも仲が良いし、僕の生活を応援してくれているけども、僕はそれ以外の人から褒めてもらったり、認めてもらってきた機会が圧倒的に少ない。承認欲求が薄いため、他人から好かれることを狙いに行くことがなかった。そりゃあモテる努力もしてないのだから、モテなくて当たり前だと思っている。そりゃそうだし腹落ちしていることなんだけど、「多くの人から自分を肯定してもらう機会がなかった」そのことは事実ではある

だからそういう意味では、僕の自己肯定感というのは、他の人よりもだいぶ低いままなやってきたのかもしれない。「僕には沢山の友達がいてー、みんなと仲良くやれているからー、自分の存在価値を感じられているー」といった感覚を抱いたことがほぼないのだ。だからといって寂しいワケでもないし、物足りないとか、満たされないとか、そういう感覚も別に感じていないのだけど、きっと「陽キャグループの人達」が、一見バカそうだけど楽しそうにも見えるのは、お互いに自己肯定感を与え合えているからなのかな、なんて思ったりする。

僕は中学生の頃に転校を経験して、そこで一度「完全な孤独」を感じた。「数少ない友達」はもちろん、「そこまで仲良くはないクラスメイト」だったとしても、自分のことを知ってくれている人が誰もいない環境、というのは、中学生時分の僕には堪えた。それでも家族はいてくれたし、地元の数少ない友達やホームページのおかげで、ギリギリ耐えられた。

しかしながら、それ以降の僕は、根本的には孤独なのだろう。そんな自分に納得はしているし、自分でこの生き方を受け入れてきた。誰かのせいではないし、誰のことも恨んだりなどしていない。自分で自分を否定することはないのだが、積極的な肯定もしてあげられていない。

繰り返しになるが、僕は家族のおかげで、最低限の「自己肯定感」は失わずにやってこられたと思う。だけど、もっと自分に自信を持って過ごせている人たちというのは、より多くの知り合い・友達・仲間と関わりを持つことで、自己肯定感を高めてもらえているのかな、と思う。「僕に足りていないモノ」という表現をするなら、自己肯定感だと思う。

だから、といっていいのか分からないが、自分が個人サイトを続けていく中で、閉鎖してしまった先輩方のサイトを思い返して、今もずっとその幻影に憧れ続けているところがあると思う。自分がまだ成長しきれていないから、未だに「あの頃のサイトたち」に憧れ続けているのである。サイトが閉鎖してしまった以上、現実を見れば「長く続けているのは僕の方」だったりするし、当時の管理人さんたちの年齢なんてとうに通り越しているのにも関わらず、僕はまだまだ子供で、あの人達が憧れの先輩なのだ。

自分自身と、我が子を「楽しい」で満たしたい

個人サイトを続けてきたことで、僕の身の回りの情報をデータベース的にまとめることができていて、それは僕がとても落ち着ける行為だ。静かに日記をしたためているような、そんな感覚に近い。それだけのための行為だった。

僕は今現在もやはり「承認欲求」といったものはなく、一人でいることに慣れてしまったのだが、そんな自分を、胸を張って誰かに紹介できるかというと、そうではない。例えば家族に、例えば会社に、例えば友達に、自信を持って何か価値をお届けできるような存在にはなれていないと思った。

僕には大切な我が子がいる。家庭の形は思い描いていたとおりには行かなかったが、何よりも大切な我が子なので、絶対に寂しい思いなどさせたくないし、できる限り色んなことで喜ばせていきたいと思っている。

でも、僕自身の自己肯定感の低さによって、我が子に対して提供できる価値が少ないのだとしたら、それは何とかしたいことだ。ただ居るだけで、面白味も何もない親父では、子供のためにならない。

僕自身に厚み、強固な柱を持ちたい。「一人だけど寂しくはない生活」なんて表現ではなく、「一人であるかどうかに関わらず、とりあえず今はメチャクチャ楽しいよ」と言える状態でいたい。


友達の「数」が重要なのではないと思う。1通のメールが嬉しかったように、大切なのはその「質」だ。数は少なくとも、互いを認め合って楽しめる仲間ができれば、それはより良い自分になれるだろうし、仲間や、我が子に与えられる影響というモノも良いモノにできると思う。

何が面白いのか、何が楽しいか、ということも、「数」では表現しづらいことだと思う。あの頃憧れたサイトたちは、アクセス数が高かったから憧れたワケじゃない。単なるコンテンツの量でも、掲示板の書き込みの数でもない。

後から結果的に、数で分かることもあるとは思う。ウケた YouTube 動画は再生数が回るかもしれない。でも注意しないといけないのは、炎上するような悪いバズり方をした場合も、再生回数というのは回る、という点だ。再生回数を稼いで広告収入が得られるかもしれない。でもそれはちっとも楽しくないことかもしれない。

だから、まず自分が何かに憧れ、それに近付いていく試行錯誤の過程そのものが楽しく感じられるようなことを探していきたい。「この方が他人からウケるだろうから」といった目線よりも、「俺はなんだかとにかくコレが気になって仕方ない!」というモノを、純粋に追い求めるようにしたい。


この個人サイトに限らず、僕がずっと共にしてきた「インターネット」という存在は、間違いなくこれからの僕にも重要な存在になると思う。インターネット上で出会う人達と、インターネット上で何かを実現し、面白いことをしていきたい。リアルを軽視しているワケではないが、職業エンジニアでもある僕が、今既に持っている強みというと、やはりインターネットだったり、パソコンで何かを作ったりして実現する能力、ということになるワケだ。

今後自分自身が楽しめて、我が子を楽しませるためにやっていくことは、インターネット上で全てが完結しないかもしれない。インターネットはキッカケの一つに過ぎなかったり、リアルでの活動が充実して、個人サイトは「とても楽しかったです」と報告するだけの場に収まっていたりするかもしれない。だけど、このサイトは僕の人生そのものでもあるので、ココに僕の生きた証が、それもとびきり楽しそうに生き抜いた様が残せるように、これからの過ごし方を考えていきたいと思う。